詩的な何かと散文のあわい

 

あたたかいほうじ茶がからだに染み渡る。

そんな季節になりました。

 

わたしがこのところ一貫してたいせつにしたい一つは、” 行間 ”  。

通常の文章ではあり得ないところでも敢えて行間を開けて間をおく。

 

目指すは詩的な なにかと、散文のあわい。

 

究極の昇華のかたちが「詩」であるのなら、この時代に究極を求める人はごく僅か。

あるいは今後じわじわとまた熱を生むかもしれません。

 

読み取るのは彼であり彼女。

そこまでの手綱はいらない。あとは自力で辿り着いてと、

 

求心し遠心し、ながれ ながしゆく。

 

 

普遍的なものなどそう多くない。

大抵は一過性の浮き世のありさま。

 

 

あなたのなかに救いはありますか?—・・・

 

「求めるばかりじゃ魂も枯れちゃうわ。」

それぞれがその足で。
踏みしめる地面。そのときの地面はコンクリートじゃなくて、ありのままの土がいいな。

 

都会の地面が土に戻る日が先か、若者が土を求めて引き返す日が先か・・・

一輪の本当のバラは沈黙している。

言葉自身は決してバラそのものになることは出来ない。まして、それを超えることは出来ない。言葉はむしろ常に我々をあの本当のバラの沈黙に帰すためにあるのではないだろうか。そして詩人が、バラを歌う時、彼はバラと人々とをむすぶことによって、自らもその環の中に入って生き続けることが出来るに相違ない。

— 谷川俊太郎「二十億光年の孤独」

当たり前が発見になる未来。

 

それではこの辺で。

中條 美咲