宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」を読んでからわざと追い打ちをかけるように肉まんを食べたらものすごく気持ち悪くなってしまいました…。
人間ばかりが平和に豊かに長生きしようなんて考えは甘いよなーと。
「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰えまいか。」
「それはほんの小さなことだ。ここに斯う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私儀永々御恩顧の次第に之有候儘、御都合により、何時にても死亡仕るべく候 年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長殿 とこれだけのことだがね、」・・・・
新編 風の又三郎 — 「フランドン農学校の豚」
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前回のつづきに取りかかります。
参照:「高畑作品の背景で織り成す『音楽』との出会い」
「かぐや姫の物語」での話が一段落つくと、その後は「太陽の王子 ホルスの大冒険」「おもひでぽろぽろ」「火垂るの墓」の中で使われた音楽について話が及んだ。
ホルスの大冒険は東ヨーロッパが舞台の為、(本当はアイヌの話にしたかったらしい)劇中で流れる音楽の独特な世界観に圧倒される。まだインターネットもなく世界が遠い海の向こうだった時代。1960年代のアニメ史上でこんなに開いた視点を取り入れていた高畑監督。
興行的には厳しいものがあって当然なのかもしれない。監督は成功させるために高校生以上に宣伝したかったと仰っていたけれど、高校生以上でも容易には伝わらない可能性も高い。
中でも主人公ヒルダの唄が頭を離れない。
光と陰の両方を併せ持つ美しい歌声のヒルダ。村民は皆彼女の歌声に心底心酔してしまう。
それは恐ろしいことでもあるんだろう・・・。
今更ながら近々レンタルして最初からきちんと見てみたい。
「おもひでぽろぽろ」では夜のドライブシーンでカーステレオから流れる音楽がトシオの好きな世界の民族音楽というのもハッとする。
監督いわく、「その当時の田舎の青年だってラジオを通して世界の音楽に触れ、好きになる者だっていた筈だ」という。それはハンガリーやルーマニア、ブルガリアの古い音楽を再現したものらしい。
流れで見ていた時には気にも止めずに見過ごしてしまい、知らぬ間に世界の片鱗に出くわし通り過ぎていた。そんなことをつくづく思い知らされた。
またエンディングシーンで流れる曲、「The Rose」を高畑監督が日本語に訳して都はるみさんがうたう「愛は花、君はその種子」がぼろぼろ泣けてしょうがなかった。映画のキャッチコピー「私はワタシと旅に出る」がラストでぴったりと重なり合う。
なぜ演歌歌手の都さんにうたってもらったか?という問いに対して監督は、「演歌歌手だからといってそのジャンルにとらわれる必要はない。歌が上手な人なのでこれをきっかけに新しい出発をしてもらえれるんじゃないかと思った」と。けれどその後、その垣根を飛び越えてはもらえず、元の演歌のフィールドに戻ってしまいそれについては残念そうに話していた。
監督は学生時代に法隆寺に行ってこんなことを思ったそう。
「この場所で背景音楽にバッハがきこえても全然変ではない」
日本の音楽については「もうひとつ突き抜けていけない」「節操なんてなくてもいい、日本にないリズムをどんどん取り入れてほしい」と。
その一方で伝統的な「能」のうたでもすばらしい瞬間がある。
いいものに出会うチャンスは今の時代いくらでもある。ただ、何も知らないと偶然を頼りにするしかありえない。その為にはもう少しガイドをうまく担っていける導き手が必要だと。
ピーターさんもそのあたりは痛切に感じられているようでお金儲けばかりじゃない媒体の必要性を説かれていた。
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来月には79歳の誕生日を迎える” 高畑勲 ”という人の、今尚広がり続けていく好奇心と生命力の強さ、革新的な姿勢に終始圧倒されっぱなしの2時間半でした。
宮崎駿や故人である氏家齊一郎を魅了し続けている理由が今回ようやく想像から実感へ。
おそらく高畑さんはあと10年は生きて進化を続けるのではないでしょうか。
生温い調子では到底目も合わせられそうにありません。
背筋をしゃんとのばして、今に向き合って自分足で歩きなさいと背中を押された気持ちになりました。
現実を現実として。
異なる民族の行く末。
民族音楽を手掛かりに開ける世界もずいぶん広いのかもしれません。
それではこの辺で。
中條 美咲