両義的思考の豊かさと危うさ

中沢新一さんの著書、「緑の資本論」を読んだ。資本論に興味は少ないが、「緑の」というところに興味を持った。

   序文        7
圧倒的な非対称     13
緑の資本論       37
シュトックハウゼン事件 129

モノとの同盟      145

 

理解力が乏しいせいか、前半は少し難しい印象を受けた。読み進めていく中で「シュトックハウゼン事件 — 安全球体に包み込まれた芸術の試練」という章が結構な衝撃として印象に残った。かなり長くなるけれど(本当に!)、本文の内容を引用して残したいと思う。

シュトックハウゼン事件 — 安全球体に包み込まれた芸術の試練

近頃ドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼン氏を襲った災難ほど、この時代の病症をあからさまにしめしているものは少ない。この事件は報道がつくりだしたものであり、その後も報道は現実の歪んだ像しか伝えようとしなかったものだけに、まずは事件の経過のあらましを紹介しておく必要がある。

七十三歳になるシュトックハウゼン氏がハンブルク空港に着いたのは、去る(二〇〇一年)九月十六日の夕刻だった。(中略)この都市で開催される有名な音楽祭の今年のテーマは『外部空間 WELT-RAUM』、目玉はシュトックハウゼン氏の作品の大がかりな連続演奏会であった。(中略)今回のように自分の作品が一挙に上演される機会は、この現代音楽の巨匠にとっても初めてのことで、その日のうちに用意されていたにぎにぎしい記者会見を前にして、いささかの興奮を禁じ得なかった。

(中略)十数名の記者団に囲まれて質問を受けるシュトックハウゼン氏は、しごく上機嫌に見えた。あの男、「北ドイツラジオ」のディレクター、J・シュルツという男が質問をはじめるまでは。
記者たちの質問は、この音楽祭に上演が予定されていた難解な大作『LICHT(光、作曲家自身はこれを Hikari と日本語で呼ぶのを好んでいる)』シリーズのことに移った。「あなたにとって光とはどんな意味をもった概念なのですか」というどこかの記者の質問に答えて、シュトックハウゼン氏はまず次のように語り出した。
作曲家 「……ですから、それ以来この巨大な作品は Hikari と呼ばれることになったのです。世界全体に起こる出来事が、最終的には演奏に二十八時間かかるこの作品に出現するのです。もちろんそこに現れる緒テーマをこの時間内で描くことなどできない相談ですが、それは音楽と大天使ミカエルの姿を通して、聞く者の時間的意識の秩序をとらえられるものとなります。エヴァは生命の母であり、ルシファーは光の王子です。この二人が巨大な規模の世界革命を、宇宙革命を引き起こします。あいかわらずシュトックハウゼン氏はクレイジーでしょう……」(中略)

会見は終始和気あいあいとした雰囲気で進んだ。話題は天使のことに集まり、作曲家は自分にとって天使は知識や教養の問題ではなく、生々しい現実性を持つと言い出した。
作曲家 「私は毎日ミカエルに祈っていますよ。でもルシファーには絶対に祈りません。ルシファーはいまも活動を続けているので、とてもそんなまねはできません。ああ、ルシファーはあのとき(九月十一日)ニューヨークにも、出現していたのですからね。」
しばらくのんびりとした質問が続いたあとで、突然シュルツ氏が口を挟んだ。
シュルツ氏 「あなたはさっきニューヨークの事件のことを話題になさいましたね。あなたは自分の作品について書かれた文章の中で、音楽は人類の調和を耳で聞き取れるものにする、とお書きになっていますよね」
作曲家 「はい」
シュルツ氏 「しかもあなたはニューヨークのルシファーということについても語られた。この理解でいいですね」
作曲家 「けっこうです」
シュルツ氏 「あなたは個人的には最近起きたあの事件について、どうお考えなのですか。とりわけこれから演奏が予定されている作品の中で、人類の調和について語られたあなたは、あの事件をどうごらんになっているのですか」

ここでシュトックハウゼン氏は唇を噛んだ。涙をこらえているようにも見えた。そしてこう語った。
作曲家 「あの事件については……みなさん頭をよくリセットしてくださいよ……あれはアートの最大の作品です……私はルシファーのおこなう戦争のアート、破壊のアートの、身の毛もよだつような効果に驚いています」
シュルツ氏 「あなたはこのルシファーのアート作品を犯罪と見ていますか」
作曲家 「もちろん。それは間違いなく犯罪です。罪もない人々が否応もなく多数殺されてしまったんですから……しかし、霊的にとらえれば、このような安全からの逸脱、自明性からの逸脱、日常生活からの逸脱は、ときどきアートの世界でもおこることなのですがそんなものには価値がありません。しかし、いま言ったことはオフレコにしてください。誤解されると困りますからね」(ここで記者団は同意をあらわすように一斉にうなずいた)

しばし沈黙したあと、シュトックハウゼン氏は危険な質問を自分に突きつけてきたこの記者に向かって言った。「あなたは私をどこへひっぱっていこうとしているのですか。……あなたはひょっとして音楽家ですか」。シュルツ氏は、そうだったこともある、と答えた。そこで作曲家はからかう調子でこう言った。「たぶんあなたはルシファーなんだよ」。
不幸にも、作曲家のこの予言は的中することになる。じっさいその後の行動を見る限り、シュルツ氏はまさに破壊の王子ルシファーとしてふるまったのである。

(中略)そしてその晩の「北ドイツラジオ」は、「ハンブルク音楽祭記者会見において作曲家シュトックハウゼン氏の口をついて出た、信じがたい非人道発言」を大きくニュースに取り上げて放送した。しかも、発言の前後のコンテキストを周到にカットして、あたかも世界貿易センタービルの事件について感想を求められたこの作曲家が、あっけらかんと「あれはアートの最大の作品です」と発言したかのように、みごとな細工をこらして放送されたものだから、その報道は、シュトックハウゼン氏とハンブルク音楽祭に対して、まさに致命的な打撃を与えたのである。(中略)数時間後にはハンブルク音楽祭自体が、中止に追い込まれるところにまで発展した。

(中略)今回のことが音楽ラジオ番組の一ディレクターの暗い企みによるものであることは、前後の事情から明白であり、そのことは記者会見場に居合わせた他者の記者たちも実際に目撃しているはずなのに、一般のマスコミはそのことは取り上げようとせずに、この世界的前衛作曲家が、記者会見における非人道的な前言を取り消す発言と謝罪をおこなった、とだけ報道した。
マスコミのおこなった一連の行動から精神分析学的に推論すれば、シュトックハウゼン氏の(一部の)発言は、まさしくマスコミ自身が語りたい内容だったのである。しかし、この時期にこれを語ることがどれほど危険なことかを承知していた彼らは、「芸術家」という人々の口を借りて、その内容を ”語らせた” ばかりか、責任はすべて「芸術家」に押しつけてしまうことで、自らは社会的正義の場所にいることを明示しようとしたのではなかろうか。(中略)

さて、この事件は、現代の芸術がおかれている状況を考える上で、きわめて示唆的かつ教訓的な内容をはらんでいる。まず指摘しなければならないことは、今日では両義的に思考したり、両義的な意味を発言したりすることが、極度に危険な行為となってしまっているという点である。
シュトックハウゼン氏は芸術家らしく、あらゆるものごとを両義的にとらえる習慣を身につけている。

(中略)芸術もまた両義的である。芸術は安全さや物質的な豊かさに保護された世界に、つねに挑戦を仕掛けてきた。それは、日常生活のルーティーンからの脱出を模索し、人々がとらわれている幻影のベールを裂いて、リアルを出現させようとする逸脱的な冒険を試みてきた。芸術は癒しやなごみをもたらすだけではなく、その内部には挑発や破壊の可能性を抱えている  —実験精神に富み、二十一世紀ヨーロッパの多くの激動を体験してきた七十三歳の芸術家のこのような両義的認識から、「あれはアートの最大の作品です」という発言がこぼれだしたのである。かつては、芸術家や思想家のおこなうこのような両義的思考を許容し、知性豊かなその発言を賞賛すらしてきた社会は、いまやそれを許そうとしなくなった。とりわけジャーナリズムにとっては、豊かさと危うさをはらんだ両義的思考こそは、最大の餌食であり敵なのである。

*(中略)

シュルツ氏は一人ではない。おびただしい数の見えざるシュルツ氏たちが、快楽原則の外部をめざそうとする者たちを、厳しく監視していることを忘れてはならない。安全球体に包み込まれた芸術は、今後ますます二重言語の使用に熟達する必要にせまられるのではなかろうか。真意をけっしてあからさまに言わない、表現することによって隠す。このような二重言語的思考によって、なかば英雄的ですらあった両義的思考による芸術をのり越えていくことができないかぎり、シュトックハウゼン氏を襲った災禍は、明日は私たちのものとなろう。

うまくまとめることが出来ずに、かなり大幅に引用してしまった。けれど、ここに書かれていることはとても、(非常に)大切で、きちんと受け止めておきたいことだと思った。

両義的思考ができる人って、そう多くはないと思う。大抵はどちらかの意見、意味に引っ張られてしまう。相当に意識して、注意して、ギリギリと理解しつつもシュトックハウゼン氏はこのような勇気ある発言を(あえて・意志を持って)されたのだろう。それでも、それでは甘かった。ということなのか。

「両義的思考」それをきちんと理解した上で受け入れ、賞賛してきた社会がかつてあったと著者はいう。この本の出版されたのは2002年5月。

グローバル化されつつある地球上の人類は今日、圧倒的に豊かな世界と圧倒的に貧しい世界に、二分化されつつある。物質的に豊かなものたちのつくる世界は、潜在的なテロリズムの脅威を抱え込みながら、あらゆる組織をネットワーク状につないで、安全で豊かな世界の意維持のために神経を張りつめさせている。

ともあったけれど、9.11から明日で13年。
そういった神経の張りつめは、この十数年でより一層深刻になっているのかもしれないことを感じつつ、勘違いかもしれないし、そんなことを感じたところでまずは現実に立ち返るしかないという。

安全球体を守るため。いろいろなものを排除したり拒否したり、許容できなくなってしまう一途ばかりでない道がどこかにないかと、なるべくなら深刻にならずに探し続けたい。そして、そういったヒントは最後の章「モノとの同盟 —増殖・生命・資本主義」の中にもちりばめられていた。

谷崎氏の「陰翳礼賛」などを例に挙げ、日本語のことばが意味するものは、じつに広大で深いということらしい。

そんなことを踏まえて。

あまり神経をすり減らさずに、そういった深々とした美しさを自身の中に抱えながらも、必要以上に畏れることなく。意識的に両義的思考をして生きていけたらいいなと思った。そんなの仙人の域か・・・・。全くもって両足が宙に浮いている。

 

それではこの辺で。

中條 美咲