おばさん的おじさんと、祖母や母から学ぶこと。

「ほぼ日」と言えば大抵の人が「ほぼ日刊イトイ新聞」や「糸井さん」ね! とピンと来るのだと思う。
たぶん、今の世の中的に「糸井さん」や「ほぼ日」はとてもホットな場所となり、それ程に大手を振ってアピールしなくとも、次から次へと人びとの注目の的となって一定のポジションを保ち続けているとても小回りの利く、新しいカイシャの在りよう(理想型)のような気が個人的にはしている。

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今、世の中的に。とはいってみたけれど、実際にはもっと前から、一定のアンテナを備えた人びとの中で「糸井さん」の元には自然と継続して人が集まってきていたんだと思う。

わたしがその存在を自分の中に意識し始めたのが、そんな出発地点からはずーっと後というだけで。

 

新聞で言えば「余録」のようなものにあたるのか。
ほぼ日刊イトイ新聞のトップで毎日更新される「今日のダーリン」がとてもいい。

力が入りすぎておらず、(入っていたとしてもそう見せないように)子どもでもわかるようなとても思いやりのある文章と、ちょっとした気付き。自分に対しても、相手に対してもとても正直な人なのだろうなーと自然と思えるから、安心して読んでいられる。

おそらく、個人的な憶測なのだけれど、糸井さんはとても女性的なおじさんだと思う。

女性的なおじさんというのは、なんていうかそっちの意味ではなく、感覚・感性の部分というか。・・・(余計遠ざかってる?)

つまり「男性的おじさん」=権力や名誉や名声的なものを誇示したい。強固なプライドを築き上げている。とは真逆で、あんまりそういうものに意味を感じずに、どちらかといえばご近所さんと井戸端会議をしていたりする中から暮らしの知恵などを膨らますことが出来る。そんな意味での「女性的(おばさん的)おじさん」の代表格なのだと思う。

だから物腰がとってもやわらかい。そしてやわらかい物腰の中にもしたたかさを備え込んでいる。

 

私自身の考え方にはとても偏りがある。ということを自覚した上で思うのは、生物的にしたたかで生命力が強いのはやっぱり女性なのだと思う。

簡単にいってしまえば女性は「開き直って」生きていける生物だから。

 

「糸井さん」が開き直っているかはまた別として、とりあえずおばさん的おじさんの「糸井重里さん」の発信することは基本的に相互的なものの上に成り立っているので、より今のようなソーシャルであったりSNS世代にとっては好感が高い。

 

・・・というのは前置きで。。

今、ほぼ日で連載中の糸井さんと為末大さんの対談。「走ることについて、しゃべる理由。」5回目の「引退に向かうとき。」を読んでいる中で自分のなかにずっしりと漬物石のような立派な重しが覆い被さった。

それはこんな会話。

糸井: もしかしたらじぶんもできるのかも、って思う理由がひとつあって。
震災の直後に被災地に行くと、向こうの人たちが、
ご飯をごちそうしてくださるんです。ぼくらとしては、支援するつもりなのに、
ごちそうになっちゃいけないんじゃないか、という思いがあるわけです。
ところが、被災地の人たちは、「ごちそうしたいんだよ」って言うんですね。
それは、ぼくのなかで、いろんなこと考えるときの原点になっていて。
人って、じぶんを生かすためのエネルギーをただただ吸収してるだけの
生き物じゃなくて、「人を生かす」ことを、やりたいんですよ。
それがもう、本能に組み込まれている気がする。
逆に、「そこはやんなくていいから」って言われたら、すごくつらいと思う。

(中略)

為末 :そうなんですよ。
だからなんか、人って循環するっていうか、やっぱり、感謝して、される、
っていうふうに、ぐるっと回ってないときっとダメなんでしょうね。

糸井 :やせ我慢じゃなくてね、もっとやわらかい気持ち、
人はありがとうって言われたい、っていうか。

この会話を読んでいて思い出したのは、母と祖母(母娘)のやり取り。

耳が遠く、髪の毛も真っ白になり、長年の畑仕事で日に焼けた祖母は本当にいつでもにこにこしている。

祖父がいた時は長年すいか農家を営んでいて、毎年夏になると傷がついてしまい商品にはならないけれどおいしいすいかをたくさんもらって食べた。すいか農家とは別に、自家菜園も本格的でそんな祖母のもとで育った母も仕事の傍らで家庭菜園を熱心に営んでいる。

今では年に1度ほどしか祖母に会う機会はないけれど、父母と祖母を尋ねると必ず「祖母:畑で穫れた野菜を持っていきな」とか、「母:うちもあるからいらないよ」とか、「祖母:こんなのも穫れたよ」とか。聞こえてるかどうかわからないけれど、でっかい声でそんなやり取りが繰り返される。

お茶やお菓子や漬け物。断ってもあっという間にテーブルの上にはお茶の支度が整う。

それはとても自然で、当たり前の光景。

ちょっとくらいおせんべいが湿気ってたって、お腹がいっぱいだって、そんな風にされたらお茶をせずにはいられない。

今、実家を離れて実家に帰る度に、母も同じようにたくさんのごちそう(わたしの好きなもの)を有り余るほどに振る舞ってくれる。夏になると段ボールいっぱいに野菜が送られてくる。

 

「人を生かす」ことって、とても立派な立場の人が特権的に出来ることではなくて、ほんとうにそういうところ。母から子へ、またその子へ。の延長線上にすべてがあるんだなぁと。

被災地の人たちにとっての糸井さんの存在というものも、「ごちそうしたい」と思わせてしまうなにか大きな拠り所、大事な存在になっているんだろうなぁと。読んでいて、考えて、思い至った。

 

わたしの今はどうだろう・・・?

どちらかといえば、人のことまで手が回らない。じぶんの事でいっぱいいっぱいになっていやしないか。。

こんなにも身近に「ごちそうしたい」が溢れているのに。受け取ってばかりじゃ後が続かない。

受け取った分、裾野を広げていかなきゃと、つくづく。

 

先日、ほぼ日のリアルストア「TOBICHI」にまだ暑い夏の午後、お邪魔した。

入り口手前(屋外)で迎えてくれるおじさまと、屋内に入るやいなやスタッフ総出でミニ「いろはす」が振る舞われ、なんだこのもてなしは!!と驚きを隠せませんでした。

何かを買ったから振る舞うのではなく、来てくれてありがとうの振る舞い。

そんな部分を含め、糸井さん自身も被災地の方などからたくさんのごちそうを受け取ってまた違うかたちで分け与えて。そんな風にして日々裾野を広げられているのだろうなーと感じました。

そうすることでやっぱりそんな人の周りには大勢の人びとが自然と集まってくる、拠り所となるのでしょう。

 

拠り所に頼るばかりでなく、じぶん自身も誰かしらの拠り所になれたらいいなぁ。なりたいなーと思うばかりであります。ね。

 

それではこの辺で。

中條 美咲