先日、六本木の国立新美術館へ行った。
開催中の「オルセー美術館展」をみた。マネやモネ、ルノワールやセザンヌの絵画が一挙に集結している。
本場フランスの、印象派の始まり。”マネ”の作品を軸に展示が始まり、展示が終わる。
豪華で華々しい印象のフランス絵画。その世界も相当に古き伝統と革新とが常に肩を張り合ってきたに違いない。
わたしは絵画について何かを語れるような知識を持ち合わせていない。ただ西洋と日本の文化の違いを再認識したような気がした。そんなこと随分と語られてきたのだろうけれど、備忘録的に書き残しておこうと思う。
ひとつ目は『額縁』
その存在感はこれでもか!という程の存在感がある。ゴールドに輝き、ごつごつと立体的で、絵に負けず劣らずの存在感と重厚感がある。
ふたつ目は『女性の服装』
その時代に描かれている女性たちは貴族やブルジョワジーに限らず一般の労働階級の女性たちも身につけているのは必ずドレス(スカート)ということ。
三つ目はモノの『有無』
6章の「静物」を見ていて思った。彼らはあらゆるモノをテーブルに並べそこはモノで溢れている。フルーツは器からはみ出んばかりで宝飾品やワインやグラス。静物だから全てをよけて描きたい一点だけを切り取り描くということはあまりしないのか。
日常の光景そのまま、もしくは更に盛り込みモノに溢れているといった印象を受ける。
それに対して東洋の中の日本の文化はどうだろう。
西洋の文化がこれだけ入り込んでくるとイマイチ実感しにくいけれど。東洋の中でもとりわけ日本は千利休の時代から西洋とは全く正反対の美意識を追求してきたことは間違いないと思う。
茶室、床の間。必要品以外何もない空間。
庭に咲き誇った群生する朝顔の噂を聞きつけた秀吉が、「是非見に行こう」と千利休を尋ねたところ、庭一面に生えた朝顔のたった一本のみを残してあとは全て切り落としてしまい秀吉は激怒したという逸話があるほどに、千利休は徹底的に侘び寂びを追求したらしい。
いけばなも一本の「立て花」から始まる。それが花なのか枝なのか…
いけばなは一本でも完成する。一本で完成してしまう。
もちろん日本でも豪華絢爛、雅な文化も伝統も沢山ある。
でも基本は質素。
モノより余白。あるモノより視線はないモノへ。
きっと日本人ならこんなにモノが沢山あったら随分間引くに違いないと勝手に想像したり。
そういった意味ではマネという人は扇子に日本画を描いていたりするところからも東洋的な美に惹かれていたのかもしれない。
晩年の作品、一本の抜け落ちた《アスパラガス》や最後の展示《ロシュフォールの逃亡》は描かれていない余白がとてもいいなぁと思った。(そうはいっても塗られているか…)
マネという画家のユーモアとギリギリのところで静かに拮抗していただろうその葛藤を思うと全然わからないなりにもなんだかすごく興味を惹かれた。
額縁って建築と少し似てる。石造りのヨーロッパではあの位重みがないと負けてしまうかもしれない。
そしてドレスが文化の始まりの西洋の女性にとって、パンツルックが今のように定着するまでには相当な時間がかかったのだろうなぁと。今ではあたり前になった文化。何にしたって定着するまでは長い道のりがあったんだろう。
古き良き(悪しき)伝統・しきたり。革新。新しいものが必ずしもいいものか。
芸術って、(芸術に限らず)いつの時代もそんな風に新旧のせめぎ合いの上に成り立っているのかな。自分たちにとって新しいと思えるものも何十年、何百年前にも何度か流行っていたり。実はとても伝統あるものだったり。
生まれつきの感性はどれほどグローバルになっても遺伝子の片隅に住まわせてあげられるように、自分の感性は自分であたためて育てて守りつつ、他の文化に触れて発見をする。そんな風に絵画や芸術と付き合っていけたらいいんじゃなかろうか。なんて。
ものすごく散文で質素でない文章。
文章に余白を求めたら行き着く先は詩や短歌?
自国の文化を知らずして、海外の文化に触れるより、自国の文化・基盤をある程度把握してから、また出会いたい。
いつか本家のオルセーで。なんて。
それではこの辺で。
中條 美咲