久しぶりに会った友人から、又聞きに地元の友人夫婦がわたしの行く末を案じているよ。と冗談めかしく云われてハッとした。
半分は冗談で、半分はそれなりに心配しているのかもしれない。
ここ最近やたらと仏教やお寺、神さまのことばかり書いているからでしょうか。
自分ではそれほど案じていないことが、外側から見た様子で、随分心配させていたり、どうしちゃったんだろう?大丈夫かしら。と思わせていること、思ってしまう事は自分がどちら側に立つ場合でも、よくあることなんじゃないかと思った。
心配しないで。私は正気よ。といったところで、いやいやマズいでしょ。と思ってしまう人が10人中8人、9人いたら、それは限りなく”マズい”に属してしまい、正気よ!と叫べば叫ぶ程に更に事は深刻に、映画であれば精神病棟送りなんて題材もよくある話かもしれない。
周りからみた自分に対するイメージと、実際に自分で自分という存在を認識している(実在だと思っている)像には必ず少なからずの誤差が生じる。
それに馴染めなかったり、それがもどかしかったり、レッテルを貼られてしまったと思い込みを強めてしまう(=自意識過剰な)状態はいわゆる中二病で、誰しもそういう時期を経験し、通過してきたかもしれない。
年を重ねたり、親元から自立して、社会(といわれるところ)に晒されたりすることでようやく、他人は自分のことをそこまで意識していないよ。ということに気付いたり、多少どんなイメージを抱かれようがまあこんな自分でいいか。と合点したりするのかもしれないし、そこから更にもうしばらく悩み続けるのかもしれない。
ただ、あながち他者からみた場合の方がより現実的なのかもしれないなーと思ったりもしたので、その辺をうまく意識してコントロール出来るようにしたいと思った。
(真剣に書いているようだけど、深刻に思い悩んでしまった訳では全くなくて。ちょっとしたおかしみを感じながら書いています。)
なので今後も更にその色が強くなっていく気を充満させながらも、他者の目を意識しなさい!と自身を律して極端に寄らないように気をつけたいと一応宣言してみよう。
今一番欲しいものは小林秀雄全集で、まだ手をつけていない本が沢山あるにも関わらず、某サイトで検索しては指をくわえている。
まともに知ったのも、読んだのも最近のことなのにこの求心力はなんなのだろう?
相変わらず惚れっぽいだけなのかもしれないけれど。
”「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例(ため)しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)”
”本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。(中略)
僕はだんだん、自分で考えるうちに『おそらく人間にできるのは、人生に対してうまく質問することだけだ。答えるなんてことはとても出来やしないのではないかな』とそういうふうに思うようになった”小林秀雄
私のようにどんどん惚れて内側に入り込もうとしていく一方で、とことん惚れながらもわざわざ同じ方向を向かず(入り込み過ぎず)に真っ向からこんな風な文章を書けてしまう人もまた魅力的。
”生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ。私が彼を教祖といふのは思ひつきの言葉ではない。”
”思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見てゐやしない。つまり小林の必然といふ化け物だけしか見えやしない。”
”時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。”
坂口安吾
最後に。
いろんな角度から見てみると、中心はひとつでも全く違うものが浮き彫りになる。
そういえば、石庭の面白さは、一つの岩でも地下に埋まっている面積の方が大きくて、地表にみえるのはそのほんの一部とか。
相手の質問に上手く答えることは難しい。誤解がつきもの。
ほんとうはそんなことが言いたかった訳じゃないことばかりに終始してしまったり。
なのでまずは、答えを求めるのではなくてうまく質問することを練習したい。
中條 美咲