引き続き佐野洋子さんの「神も仏もありませぬ」より。
前回は本の内容にはまったく触れなかったので、今回は特に印象に残っているところを抜粋してみる。
それは、それはね
私が欲しがると、フルヤさんは笑って、「素人は花が咲いているとき欲しがる」と云った。「いつがいいの」と聞くと、「花が終わって、葉も枯れて、球根だけになった時」と云われて、「そーか」と思った。
金で買う
友達が、寝る前に、「あんた、おみやげって土産っていって、こういうもんなんだねェ」と云った。本当に土産っていう字をしみじみ思い描いた。私達は、どこかにお土産をもってゆく時、金で買う。当たり前だと思っていた。(中略)
私がもらうもの、私が人にあげるものは全て、金で買うものである。そして金を得るために私は一生を費やして来た。(中略)
ある時、アライさんに、「百姓はむずかしいもんだ。俺が五十年百姓しても五十回しか経験は出来ねェんだよ。トマトならトマト五十回しか経験出来ねェんだよ」と云われた時ショックを受けた。
お手伝いしてる花屋さんに100本のシャクヤクが入荷して蕾の段階で飾っておくけれど、蕾で買っていく人はなかなか少ない。
花屋さんに並ぶお花は農家さんできれいに開花したものを仕入れることが多い。
蕾から咲くまでの変化を楽しめるなんて贅沢なのにな〜とも思う。
希林さんが言っていたな。”みえないと感じにくいのよねぇ。”
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つい最近、どこかで聞いたか読んだかした言葉も重ねて頭に残っている。
”真剣であっても、深刻にはならず。”的なことだった気がする。。
真剣になればなるほど、深刻化させちゃう自分は、まだまだ甘っちょろいのですな〜と。
この本に登場するアライさんなどは、随分達観されているのにその言葉に深刻さなど微塵も感じさせない。ただ在るとか、結果そうなったとか、アライさん自体が自然そのものだなぁと思った。
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お金の使い方は多分6歳くらいになれば自然に身に付く。
お金でなんでも買える気もするし、そう思うと傲慢にもなりかねない。
内田樹さんの「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」でも教育が今ではお金を払って受けられる”サービス”になってしまっていると、警笛をならされていた。
もちろん今の世の中お金を使わない生活は不可能に近い。
お金を使うのも楽しい。いっぱいあれば悩みは増えても安心感はあるかもしれない。
でもいいものはお金で買えるとは限らないんだろうなぁ。
とくにこれからはもっとそうなるんじゃないかなぁ。(願望込み)
いいものは人との繋がりの中で手に入る、というか共有できる。そんなふうにお金ともそこそこに付き合いながら、もう少し違う可能性も探っていきたい。
最後に。
きのう、続けざまに「なんか疲れてますか?」と聞かれてびっくりしてしまった。
きっと深刻な表情をしていたのでしょう・・・。
真剣になっても深刻にはならずに。心がけていきたいものです。
京都で少し頭をスッキリさせてきます!
それではこの辺で。
中條 美咲