誰に向けたものでもなく、自分に向けて書くことを意識。
可能性について探りたい。
ひとまず、村上春樹の作品について書いてみる。
私は世に言うハルキストという程ではないけれど、彼の作品は大体読んだように思う。最新作はまだ、気分ではないので、読むのは暫く先になりそうだけれど。
彼の作品は日本人離れはもちろんのこと、徹底的に現実離れしている。
他の多くの文学やら作品をたいして知っているわけではないので、他との比較は出来ないけれど。
独特な文章の言い回しや、主人公の抱える孤独や、突っ込みどころは多々あるのかもしれないけれど、読ませてしまうのだから仕方がない。そして、その言い回しや作品の持つ世界観のようなものは読めばよむほどくせになる。
わたしが今のところ一番読み返したくなる作品は「スプートニクの恋人」だ。
ミュウとすみれが表参道のレストランで食事をする場面があり、ミュウの食事の摂り方がものすごく美しかった。という印象だけが断片的に残っていて、読み返すのだけれど、実際には食事の摂り方というわけではなく、ミュウに恋をしている、すみれに映ったミュウの姿がものすごく美しいのかもしれない。
村上作品に登場する主人公は大抵一人称〈ぼく〉なので男性が多く、良くも悪くも主人公になる〈ぼく〉らは根本的にみんな似ている。
わたしからしてみると、彼らは一定のフィルター役でしかなく、そこに登場する幾人もの女性陣の秘める力が圧倒的でそこに魅了されてしまう。
ノルウェイの森で緑がこんなことを話す場面がある。
「 ー 私すごく完璧なものを求めているの。だからむずかしいのよ。」
「完璧な愛を?」
「違うわよ。いくらあなたでもそこまでは求めてないわよ。私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ、するとわたしは『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」
「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として言った。
「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑は言った。「女の子にはね、そういうものがものすごく大切なときがあるのよ」
「苺のショート・ケーキを窓から放り投げることが?」
「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ、僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。ーおわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい? ー 』」「するとどうなるの?」
「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」
そうしてもらったぶん、きちんと相手を愛するの。
読んだ当時は中心にどすん。度肝を抜かれた。この台詞は少なからず多くの女子たちの気持ちをとても丁寧に汲み取っていると思う。 本人たちがこんな風に巧みに言葉で気持ちを表現出来るかどうかは別として。
ものすごく不条理にみえるけれど、そんなことは全くない。
村上作品に登場する〈ぼく〉らは、一見そんな彼女たちを受け入れているようにもみえるけれど、実際には彼女たちは〈ぼく〉というフィルターを通過していくことしかできない。そちらの方がよほど不条理かもしれない。
最後に。
最近、いろいろ考え過ぎてしまい自分に向けて。と意識を集中させてみましたが、ただただ書評的なかたちになってしまいました。もっともっとあらゆる文章を堂々と書けるように解放できたらいいのですがなかなか。
そういった意味でもわたしは村上作品に登場する彼女たちに恋に似たかたちで憧れをもってしまうのでしょう。
ー 純粋に自分のために文章を書くのはずいぶん久しぶりのことなので、はたして最後までうまく書き通せるかどうかもうひとつ自信がない。とはいっても考えてみれば、文章が「うまく書き通せる」自信があったことなんて、生まれてこの方一度だってなかったのではないか。わたしはただ、書かずにはいられないから書いていただけだ。
スプートニクの恋人 すみれの残した 文章1より
それではこの辺で。
中條 美咲