ものづくりの極意

私は、”ものづくり”に対してとてつもない憧れを抱いている。

自分があまり得意ではないと思っているので余計にそう感じるのかもしれないが、頭の中であれこれと、机上の空論を生んではこねくり返しているよりも手を動かし、体を動かした方がよほど健全で健康的なことだと思えてならない。

”ものづくり”といってもその範囲は限りがない。

ものを食べるにしても、生でそのまま食べるより、火に通して煮たり焼いたりした方が美味しく、長持ちもする。冬場は食物が取れないので、乾燥させたり、漬け物にしたりして、少しでも長く、無駄無く食べられるように工夫をしたり。

ものを作るようになると、様々な道具が必要になる。肉を切るためには包丁が、食事の際には器があった方が便利だろう。田畑を耕すにも、何かをを運ぶにも道具があると作業がとてもしやすくなる。

その結果、”ものづくり”はひとりで全てを担うのではなく、自然とそれぞれの集落のなかで分担することになっていったのだろう。

そこに得意不得意があったかどうかはわからない。必要に迫られてこの役割が足りないからと話し合いで担当することになったのかもしれない。親が鍛冶屋さんであれば、木工屋さんであれば、息子たちはそれを継いだ方が集団で生活して行く上での作業を継続していける。

とてもシンプルでわかりやすい。ここにひとりひとりの意思など殆どなかったのかもしれない。

ひとりひとりの意思よりも、集落として、その年ごと無事に生き抜けることの方が重要だったのだろう。

 

・・・と想像を進めていくときりがないのでこの辺で話を元に戻す。

 

”ものづくり”はその大半が人の手によって行われてきた。

そして今でも行われ続けている。

 

今となっては人の手によって生み出されるものの方が少なくなってしまったかもしれないけれど。どうせ長く使うのであれば、機械によって大量に正確に生み出された商品ではなく、時間をかけて手塩をかけて生み出されたものがいいなあと思う。

白洲正子さんの著書「縁あって」の中で、木工・漆芸家の黒田辰秋さんについて書かれている章があり、印象的だったので引用したい。

 塗りものについて

一回塗る度に乾かすだけでも、最低四、五時間はかかる。「忘れる程ほっとけ」というのが、漆芸の極意だそうで、漆はどんな場合でも、時間をかける程いいのである。

何度も※捨てずりをし、ならしては塗り、塗っては乾かすということが、五、六回はくり返される。こう書いてしまうと簡単だが、実際に見ていると、下塗りがどんなに面倒なものか、黒田さんが一番苦心されていることがよくわかる。いつ行ってみても、仕事場には、未完成の作品が、棚の上にぎっしりつまっているが、それは忙しい現代人を見下して、憐れんでいるようにも見えなくもない。いい仕事は急いでは出来ない。「忘れる程放っとけ」というのは、何も漆にかぎることではないと思う。

ー白洲正子著「縁あって」より

※捨てずり…白木の素地に生漆をかけること。最初の下地

 

 

最後に。

先日帰省した際、家族で訪ねた木曽の中山道も昔から木工が盛んで街道沿いにはかつての宿場と多くの工芸店(器や桶や櫛など)が並んでいました。

漆の器などは手が込んでいるだけあって簡単に選べるものでもないので、手に入れるには至りませんでしたが、どれがいいかと悩んでいるだけでも心が浮き立つ楽しい時間でした。

あらためて、かたち があるものを生み出せるってすごく素敵なことだと思いました。その地方によって異なる独自の民芸品などは見るだけでなく、触って、使って、時間をかけて楽しめるのですから。

ゆくゆくは使い込んだ漆の器の風合いを自分の肌で感じてみたいものです。

 

そして、頭ばかり使うことに慣れてしまったわたしたちは、しばしば頭を使わずに体や手先を使って取り組む作業を生活の中に取り入れて行ったほうがいいように思います。

それこそ田植えとか。バブル期に週末スキーヤーで溢れたように、日本中で田植えブームが巻き起こってもいいのになって。

5月になると田んぼ一面に水が張られて、夜には一斉にカエルの合唱が響き渡ります。

こんなにもカエルの鳴き声が大きかったかと驚く程でした。

 

 

ではではこの辺で。

中條 美咲