千年続く『枕草子』はたった一人に向けて綴られた物語だった

”春はあけぼの。

やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる”

日本人なら誰しも一度は国語の時間、教科書で目に触れたことのある『枕草子』

当時、その魅力に気付くこともなく通り過ぎ、25度目の春もそろそろ終わろうとしていた今日この頃・・・

日本ブーム真っ只中の触手に触れ、NHK 歴史秘話ヒストリア「”春はあけぼの”の秘話〜清少納言 悲しき愛の物語〜」を見たところ、すっかり清少納言という女性のことが大好きになってしまったので、今日はその番組の内容を中心に引用しつつ書いていきたいと思います。

 

まず始めに、『枕草子』と聞けばさぞ高尚なことが書かれていると思いきや・・・

実は今でいうブログのようなもので、そこに描かれているのは、当時(平安時代)貴族の間で流行したファッション(着物の着こなし術)や憧れのスイーツ、甘い恋の駆け引きと平安女子のトキメキが詰まった宝箱というわけです。

きらびやかな宮廷文化が花開いた平安時代。それを担い、活躍していたのが当時宮中に仕えた女性たち。清少納言が日々見聞きしたことをまとめたエッセイ。それが『枕草子』。300余りの章から成り、日記のように出来事を書かれた部分が3分の1で、残りは心の赴くままに思いついたことや素敵だと感じたことなどを書き留めた部分だそう。『枕草子』は当時の女性が何に興味関心を抱いていたかを知るカタログのようなものだということです。

まずファッションに関する記述が取り上げられます。

”しろき御ぞどもに くれなひのからあや 夢の心ちぞする”
(宮様は白い衣の上に 紅の衣を羽織っていらっしゃる それはもう美しくて夢をみているような気持ちになる)

着物のトキメキポイントについては以下のように・・・

さくら・かいねりかさね すはうかさね ふたあひ・しらかさね
(襲ーかさねー:色を組み合わせること)

かさねがよく見える、袖口や裾がよく見えることが素敵なポイントだった

さくらの襲は淡い山桜を
初夏のかさねはショウブとカキツバタの色を

”時にしたがいて”季節に合わせて身にまとふ。

派手に着飾るという感性からではなく、裾や袖のちらりとしか見えない”かさね”を意識して四季を表現しようとする、なんとも日本人らしくて、素敵だなあと思いました。

 

そして話は清少納言の宮中入りに及びます。

少納言は和歌の名門の生まれで、その才能を見初められ28歳のときに女房になりました。当時、后たちは天皇に知的に美的にアピールする為に魅力的なサロンをつくり、(私の元にくればこんなに華やかで美しく楽しいことが溢れていますといった具合でしょうか)才能ある女性たちを女房として仕えさせたようです。

通常は10代から女房として后に仕える中、28歳の清少納言はかなりの遅咲きのようで、本人もそれを恥ずかしく思い、はじめのうちは引きこもりがちだったそうです。

しかしながら、少納言が仕えていた定子様が文学好きだったことで、サロンの中でも特に気に入られ、重宝されたそう。

少納言の多彩な表現は、口コミでとても人気が出て、夜ごとイケメン貴族たちが訪ねて来て、甘い恋を楽しんだことなども綴られているようです。

しかし宮仕えし始めて3年目。定子様は初めての巫女を授かるのですが、父 藤原道隆が病死します。そして左大臣だった道長が天皇の位を狙い、定子の兄たちを次々に罪人として逮捕し城は火事になり、定子もみすぼらしい屋敷に追いやられてしまいます。

そんな中、サロンの中で少納言は道長のスパイじゃないかとの噂が流れます。当時の恋人が道長の側近だったことが原因のようです。同僚からはあれほど定子様に可愛がられておきながらと批判が集中し、定子様の元にいては迷惑がかかると実家に引きこもるようになります。

少納言を失った定子は次第に宮中で孤立していく一方、道長の勢力が拡大し、定子様に仕えていたサロンの女房たちも天皇に嫁いだ道長の娘のサロンに鞍替えしていったそうです。そのサロンには後に紫式部や和泉式部も仕え一層華やかになっていったそう。

 

ある日、少納言の元に定子様から真っ白な紙が送られてきます。その心遣いに感動した少納言は、つらい日々を送る定子様に元気を出してもらおうと、楽しかった頃の様々な思い出を手紙に書き綴ります。

”御らんじあはせて のたまわせ いとうれし”
(サロンで皆と話をする際、いつも私と目を合わせて話してくださりとても嬉しかったです)

そして、定子様からの返事に小さな包み紙が届きます。山吹の花びらにたったひとこと

”言わで思ふぞ”と。

あなたに帰って来てと口に出しては言わないけれど、あなたのことを心から思っています。

 

宮様は私のことを必要としていると思った少納言は宮仕えに戻る決心をします。

そしてお産を控えた定子の安産と健康祈願の為に、少納言は各地の寺社を参拝し祈る日々を送ります。しかし、定子は三度目のお産直後、24歳という若さで亡くなりました。

宮様を失った少納言は宮中を離れ、かつて定子様に宛てた手紙を作品として捧げようと『枕草子』を完成させたそうです。

その後、貴族たちの間で多く読まれることになるのですが、紫式部などからは”自分の教養をひけらかしてばかり”と厳しい批判を浴びる記述が残っていたりもするようです。

二百年後の鎌倉時代。

定子を襲った悲劇を一切描かずに、美しいことだけを書き残したのは主への心使いであると再評価され、今に残る作品になったということです。

 

 

最後に。

千年続く物語はたった一人の定子様への尽きせぬ想いが綴られていた。

”いとをかし” の精神の裏にはこんな背景があったんだなあと。物語性に溢れ過ぎていてつくづく打ちのめされてしまいました。

いつの時代にも本当に素敵な女性がいたということ。

前を向き願い続けること、それが後に多くの人の心に残る作品として伝わっていく。

 

歴史や古文と聞くとそんな昔のことは、文章も難しく読めたものじゃないしわからない。と決めつけていた10代のあの頃の自分に『枕草子』ってこういう物語なんだよ!と伝えに行きたい気分です。

そうしたらわたしの知層はもう少しばかり密度の高いものになっていたかもしれません。

 

しかしながら今からでもそんな知層の開拓は遅くはないはず…

”遅咲きの花は長く香る” と?(そんなことは聞いたことないけれど)

そのように自らを勇気づけ、わたしも前向きに開拓の日々を続けてゆこうと思いました。

追伸 紫式部はもしかしたら清少納言の精神性を素敵だと思いつつも、悔しさや鼻につく感じが相まってわざわざ批判を残したのかもしれないなーなんて。女同士だからこそ認めたいけど認めたくないというような、その裏に秘められた真意を想像してみたりするのもまた楽しみのひとつになりそうです。

それではこの辺で。

中條 美咲