内において満たされるもの

この冬、とっぷり影響を受けて、まるで自分の半生がすっかりその子と同一化しているような感覚で魅了された女の子がいた。

名前は「道ちゃん」。

道ちゃんのまわりには、愉快で懐深く、ほんものへと導いてくれる大人が大勢いる。道ちゃんは、自らもほんものを求めて生きる大人たちから、たくさんの愛を注がれて育つ。

ときに迷い、きょろきょろと身をもって必死のさまで道を求めると、然るべき方向に光りを照らし出してくれる誰かしらが、いつも身近に控えてくれていたりもして。なんだかとっても、恵まれている。”恵み”とはこういう環境で、すくすくと健やかに育っていくことをいうのだろうなぁと、ウンウン唸る。

そんな道ちゃんも、思春期にさしかかると自己の内面がばらばらと分裂しはじめる。彼女は少女のうちから、あまりにも大人たちの事情に関わりすぎてもしまってもいた。

だからこそ真剣に、「安心立命」の足場を求めるようになっていった。本気で一身に求めるひとの強さと美しさ、健気さに、いつしかわたしは魅了される。

本気で求めるということについて、同時にそっと、考えたくなる。

 

人生の意味、目的、あるようでない正解を求めて。
気がつくといつの間にか、
どこかへストンと、落としてしまっていたかもしれない。

わたしは「なぜ」生きるのか。

 

何度も何度も繰り返して読み返してしまう、「道ちゃん」の苦悩の一節を引用してみたい。

 ”人生の意味は、知識の断片をかき集めるところにはない、免状をとり学歴を手に入れるところにはない、人生の意味は──そしてああ、安心立命の基礎は──まず、散りぢりの内面をひとつに統べ、ととのえ、ひとつの「われ」をつくり出し発見し、深淵を生み出す憎しみを心から追い出すところにあるのではなかろうか。ただ呼吸し、ただ、のどもとを過ぎるおいしいものを食べ、美しいものを着たからといって、人は「生きている」ことにはならないのだ……しみじみとそれを悟ったとき、私はある意味で、つみ重ねた書物の上に恭々しく立って祈りつづけたあの祈りへの答が、おぼろに示されはじめたのを感じとった。「まず、存在を求めよ、内面において満たされよ」と。
だが、どうやって?どうやって?

──いつのまにか少女はひざまずいていた。泣きながら顔を天に上げて内心深く叫んでいた。
「内において満たされたものになりたい! 外からの一切のものはいらない、衣すら食すらいらない、ただ、心の奥底で生きる意義をしっかりとつかみそれによって満たされる福(さいわい) が欲しい。生きるものになりたい。もし、もしそのような福の源(みなもと)があるならば、人の魂を満たす存在があるならば、それをどこに求めたらよいかをこの惨めな者に示してください……」
くりかえし、くりかえし。
De protondis,Domine clamavi…….
(深みより、深みより主よ、われ叫びたり……)(詩篇百二十九)

──知性・理性・情操そして身体の病気、すべては、「他者」に「すなおに聞く」ときのみ、すこやかに育つ。ある人の理性が、ピタゴラスの定理はめんどくさい、「このわたしの理性にとってもっとらくなように」変わってくれ、といかに命令しても、ピタゴラスはピタゴラスであり、労苦し、考え、つらい思いをしてそのピタゴラスを己が理性の中にとりいれたときのみ、はじめて人は、数学の学問をわがものとし、「自由になって」もっと先へ進むことが出来るのだ。
然り、人間の全存在は、より広い、より大きい、「他者」に聞くべく出来ている!
それなら、心も必ずそうにちがいない。
こんぐらがった暗闇の深淵から心が出てゆくためには──散り散りに分散されずひとつに透明にまとまるためには──心の場合にも、他者を必要とするにちがいない。
わが存在そのものもまた、より大いなる存在に向かって開かれるとき、はじめて本当に「存在しはじめる」のではなかろうか。「存在しはじめ」たときこそ、真の「われ」の誕生なのではなかろうか。 ”

─ 犬養道子著『ある歴史の娘』より

すべては「他者」に「すなおに聞く」ことによってひらかれる。

「わたし」という存在は、「誰か」との出会いによってはじめて露わになっていく。

こんぐらがった暗闇の深淵から他者を求めて、ゆっくり健やかに、大きなひとになれればよいな。

 

そういえば今日は、わたしのおじいちゃんの命日だった。