忘れてしまった、「いのち」の食べ方

私たちは今年、ハイデガーの『存在と時間』という著作をテーマに、自分たちの”いま”をひもときながらものごとを考える訓練をしています。

今回のお話は、そんな『存在と時間』の関心(気遣い)や、不安についてわたしが考えたまとめです。冬は「食べる」が楽しい季節!飲み過ぎ、食べ過ぎはたまにキズ・・・


5月、味噌を仕込む(日光横川・太一つぁんの店)

”カリブーであれツンドラの木の実であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を、自分自身の中にとり込みたくなるのだろう。そうすることで、よりその土地に属してゆくような気がするのだろう。その行為を止めた時、人の心はその自然から離れてゆく。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの身体は、ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。次第に興奮のるつぼと化してゆく踊りを見つめながら、村人の営みを取りかこむ、原野の広がりを思っていた。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置き換えてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。”

ー『旅をする木』星野道夫 著

ハイデガーは「存在と時間」から、何かしらの”真理”と呼ばれるものへ迫ろうと試みる。そこから見えてくることは、時間の有限性や存在するための世界という開かれた空間性。有限な時間の先には「死」がある。こうした議論のなかで「食べる」ことは話題に上らない。けれど、「食べる」という行為は、私たちが生きていく基盤の営みでもあるハズで…。

前回、「不安」は無であり、どこにもないという話を聞いた。なぜ、人は不安になるのか。不安と孤独は背中合わせの感覚でもあるのだろうか。他者のいのちを「食べる」という仕方で関わり、この世界につながっている意識が個々人にとって切実で濃厚だった頃、不安や孤独は現代社会に生きる私たちが感じるそれとは、また違った温度感をまとっていたかもしれない。

何を食べて「いのち」をつなぎ、生きているかということ。それは、自身が根ざす土地やそこに暮らす人たちと自分自身を結びつける強力なアイデンティティとなり得ただろう。他者の死に対して、あまり敏感に、過剰になりすぎてしまっては、「食べる」行為はままならない。けれど、単に鈍感になってよいものかというと、そうではない。「食べる」行為が他者のいのちから引き離され、見えにくくなっていくほどに、私たちは自分自身のいのちの価値を見誤って判断してしまうようになっているのではないか。

生きることは、他者のいのちを食べることによって成り立っている。

「死にたい」と思う人たちが大勢いる社会を見渡した時に、「食べる」という営みをもう少しだけ自分の身に引き寄せることが、生きていく力につながるのではないかと、最近、私は考えている。

手塚治虫さんが想像したように、「死」は人間のみならず、ロボットにとっても切実な選択となる未来もそう遠くない。食べること、住まうこと、働くこと、生きていくこと……。

「私」という存在のあらゆる活動が、自分たちの手を離れていかようにも回り始めた段階で、強烈な孤独や不安に包まれ、これまで親しみを感じていた世界は異様で不気味なものとして、各々が捉え直してきたであろうこれまでの変遷を想像してみる。

「生きようとする」ことと「生かされようとする」こと。

関心にもとづくそれぞれの可能性は、この先どういう方向に開かれていくのか。時折、「いのち」の食べ方について考えることは、「存在と時間」という重くのしかかる無機質なテーマに、ほんのりあたたかな血を通わせてくれたりしないだろうか。。

冬至の今日をさかいに日照時間は少しずつ延長していきます。
ほくほくのかぼちゃ団子を頬張って、よく食べ、よく休み、来年に備えていきましょう。