毎年繰り返される演目の名は「春」。

止まらない季節にふと足を止め、空を見上げる春。

都会も田舎も、いたるところ景色は桃色さくら色。

ぴちぱちと弾け、いきおいを放つ若葉群は青々と茂り、

活動のしらせに鳥どりは持ち前の歌声にみがきをかける。 ・・・

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過ぎ去っていくものはいつの時代もこころ儚くし、

はじめは嬉々として空ばかり見上げていた人々も、

いずれは我を思い出し、足早に歩み出す。

そこで起きたすべては大きな舞台、演目のひとつ。

わたしたちが信じて止まない架空の”日常”はより一層、それがもつ”日常さ”に拍車をかけるのです。

 

そうした季節がもつ一瞬のゆるみはつかの間の中空へ昇華して、

散っていく桜を知る由もなく、肩を叩き諭されずとも、

めいめいの仕事・役割へと取り掛かる。

”「春はもう過ぎたことですよ」。”

 

過ぎ去っていくもの・儚く散っていくもの・消えて霞となってしまう淡いへの共感は、
これまでもこれからも、変わらずに根付く風土的情緒のひとつ。

先日は、東京の橋をいくつも渡り歩きました。

橋にも入り口と出口があり、入り口は「漢字」・出口は「ひらがな」でその名前が表記されていることを彼女は教えてくれたのでした。

物事、その場所へ通じる橋がかりや、季節のめぐり。

あらゆる事象には決まりごととして、”入り口”と”出口”がささやかに設定されているのだということを、小さく見つけた”始まりの終わり”。

 

そうしてなにかを思い出したように・・・

動きましょう、歩きましょう、感じましょう。

みてきいてふれて感じて考えて生み出す・つくりだす。

身体とあたま。

肝心なのは、両方の通行をスムーズにして頭でっかちをやめること。

外に出て自分の足で歩いて動いて息を吸う。

動き、歩き疲れた分おいしいものを食べ身体を労ってまた動くための休息をとる。

 

ふゆの間に蓄えられた、めいめいの気力体力がどんな風に放たれるのか、

たのしみがこみあげます。