労働する動物。社会化していく「わたし」を見据えて…

「もはや、社会とわたしは乖離している・・・?(クエスチョン・マーク)」。

人間は生まれた時には限りなく動物に近い存在ですが、時間をかけて教育を施され、社会に適応する「大人」へと、成長していく。

文明を築き上げ、それを維持・継続していく中で、「人間」としての豊かさを追求していくために、「社会化」は欠かせないひとつのキーワードなのだといえそうです。

ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読みながら、人間とは、労働とは、活動とは、仕事とはなんぞや?!と、まじめさながらに感化されている今日この頃。

ちいさく、動きの鈍い頭はとつとつと揺れ動き、油断をすると霞みゆくこの目をめがけて、彼女のことばたちは鋭く突き刺さります。

”・・・私たちはすでに、富というものを稼ぎと消費の力で計算するような社会に生きているのである。そして、この稼ぎと消費の力というのは、人間の肉体が行う新陳代謝の二つの側面の変形にすぎないのである。したがって問題は、個人の消費が、無制限な富の蓄積にたいしてどのように調子を合わせていくかという点にある。………(p185~)

今や、椅子やテーブルは、服のように早く消費され、ひるがえって服は、ほとんど食物のようにすばやく使用済みとなる。しかも、世界の物とこのような交わり方は、それらが生産される方法と完全に対応している。なぜなら、産業革命は、すべての仕事を労働に置き代えたからである。その結果、近代の世界の物は、使用されるべき仕事の産物ではなく、消費されるのが当然であるような労働の産物となった。………

私たちは、自分の周りにある世界の物をますます早く置き代える欲求にかられており、もはや、それを使用し、それに固有の耐久性に敬意を払い、それを保持しようとする余裕をも持っていない。私たちは、自分たちの家や家具や自動車を消費し、いわば貪り食ってしまわなければならないのである。………かつては、人間の工作物である世界を、このような自然から保護し区別する境界線が存在した。ところが今や、私たちは、あたかも、この境界線を無理やりに開け放ち、たえず脅威に晒されている人間世界の安定を、このような自然に明け渡し、放棄してしまったかのようである。
永続性、安定性、耐久性という、世界の製作者である〈工作人〉の理想は、豊かさという〈労働する動物〉の理想の犠牲となった。………私たちは、仕事を労働に変え、仕事を解体して最小の断片にしてしまった結果、仕事は分業に委ねられることになった。

………私たちがなにをしようと、それはすべて「生計を立てる」ためにしていると考えられている。それが社会の判断である。そして、特にそのような判断に挑戦しうる職業についている人びとの数は急激に減少した。社会がみずから進んで受け入れている唯一の例外は芸術家であって、彼らは厳密にいえば労働する社会に残された唯一の「仕事人」である。………”

ー『人間の条件』ハンナ・アレント

この本は、今から58年前の1958年にアメリカで最初に刊行されたそうです。

この春、大学4年生になり、いよいよ「就職活動」という社会化の最初の荒波(?)をまえに落ち込むあの子と話をしていて、彼女の目の前に立ちはだかっている、社会化されていく「わたし」に対するいちばんの不安や脅威ってなんだろうなぁと考えました。

かつて、その波から懸命に逃れようとした、自分自身をも振り返りながら・・・
決して批判的・嫌悪的に上の文章を捉えるだけではなく、「社会化」「消費のあり方」「仕事と労働のかたち」について、じぶんの目をしっかり開いて、時間はかかっても考えたり、かたちにしたり、取り組んでいきたいと思いました。

・・・と、なんの宣言のこっちゃわかりませんが、ひとまず暫定的に。
アーレントの文章を引用したなかに、現在のわたしたちの翻弄され、わちゃわちゃしている姿も見え隠れしていることでしょう。
「経済」という大きなおおきなカオナシ的ブラックホールはどこまでも拡大・拡張していくものなのか。

「生産」より「消費」がメインの現在において、働けど、消費され、エンドレスの止められない循環に消耗していく人生なんて真っ平御免!と思う子達が疲弊せずに、創造してゆっくりでも生み出していけるかたちってどんなだろう?とわたしはわたしで、実体のない雲をあつめて、想像しています。

”………ゴブリ……………ドドド…ズドドドドーン

ズ ズシ ズシ ……ゴーッ
それは その人々の死を早めるだけのことであった
火の鳥は 火山の火口壁に巣をつくってそこへうずくまって思いにふけっていた

それは はてしなく長い年月だった

生物が滅びて また現れて 進化して 栄えて 滅びた……
火の鳥の目のまえで何度くりかえされたことだろう………

そして何度目かの人間が いままたおなじ道を歩もうとしている
火の鳥はいつも思うのだ
あのナメクジにしたって 高等な生物だったこともあった
ここではどうしてどの生物も間違った方向へ進化していまうのだろう

人間だって同じだ
どんどん文明を進歩させて結局は自分で自分の首をしめてしまうのに
「でも 今度こそ」と火の鳥は思う
「今度こそ信じたい」
「今度の人類こそきっとどこかで間違いに気がついて……」

「生命を正しく使ってくれるようになるだろう」と……

手塚治虫の『火の鳥 未来編』で描かれているような、皮肉な真実(?)の最中に、私たちは”生かされて、試されて”いるだけかもしれないと、念頭に置いて。

21世紀の「人間の条件」。
人間が人間であるための、変わらない条件とはなんなのか。

とてもおもしろい一冊です。
落ち込まずに、考えながら。
あたまだけじゃなく、自分の足で歩き続けるためにもっ!