正月明けのぼやけた頭を、がつんとやられる一冊に出会いました。
今はなき哲学者、川原栄峰さんの著作『哲学入門以前』というものです。
27歳になりたてのわたし自身にむけて、お祝いと激励の気持ちを込めて引用してみます。
ちなみにこの本は、昭和42年11月に発行されたもののようです。
序文にかえて
大学の哲学科へ進むことに決めて、当時、担任の先生であった今は亡き、素白、岩本堅一先生に、そのことを報告に行った。もちろん教員室へ。簡単なご注意をいただいたが、「哲学というのは大きな常識です。だから小さな常識を超えなければならない。しかし超えるということは無視するとか破るとかいうことではありませんよ。」という意味のことを、大体これと同じような言葉でおだやかにおさとしくださった。もちろん私はすなおに「はい」と頭をさげて引きさがったのであるが、その頃の私の言行には先生のお目にあまる「非常識」なところがあったのではなかろうかと、思い出すたびに心配である。ー(中略)
私流に解釈すれば、大きな常識とは「正気」ということだろうと思う。どんなに穏当なことでも、一面的抽象的にそれをそうと思いこんでそれに固執すると、ついには正気のさたではないようなことになってしまう。平和、平和と言いながら互いにいがみ合うようなことにさえなってしまうのである。そんなことになってしまうということがどういう意味を持つのか ーーというところまでおりていって考えないかぎり、思想も哲学も始まらないと私は思う。ただ、そうは言うものの、一体「正気」とはどのへんのところをいうのか、これがじつははなはだあいまいで決めにくい。特に、自分自身に関してこれが最も困難である。大いに正気のつもりでいても、あとになってから、思い出してはずかしくなることがよくある。ソクラテスは「無知を知れ」と警告した。心にくいまでに人間の愚かさを衝いている。
けっきょく、なんとかして「正気」におさまろうとする努力が「哲学」という形をとるのである。ヘーゲル流にいえば、素朴な直接的な、感覚的な確信が次第に崩れて行って具体的真実へと深まり、また高まって行くプロセスである。ただし、そのプロセスたるや、決して、いわゆる客観的なことがらではない。それはもっぱらひとりひとりのこの私のことがらなのである。
自由とか、歴史とか、客観的とか価値とか、さては世界とか人生とかと、まるでわかりきったことのように日常使われている「ことば」が、「ことがら」として一体どういう意味とか構造とを持つのかと疑うとき、そこにささやかながら、哲学が始まっているのだと言えよう。小さな常識は超えられようとしているのだから。だが、そのためにはなんとしても偏見のなさ、とらわれのなさ、本当の意味での「自由」という開けた態度がなければならない。常識を超えようとしている以上、常識的なすべての色めがねをはずさねばならないのである。(以下略)『哲学入門以前』川原栄峰著
”素朴な、直接的な、感覚的な確信が次第に崩れて行って具体的真実へと深まり、また高まって行くプロセスである。ただし、そのプロセスたるや、決して、いわゆる客観的なことがらではない。それはもっぱらひとりひとりのこの私のことがらなのである”
客観的ではなく、ひとりひとりの私のことがらをきっかけとして、素朴に、直感的、感覚的に確信し、それを崩して具体的に確かめたり深めたり高めたりしていくなかで、日常使われている「ことば」が、「ことがら」としてどういう意味をもつのか疑うときに、そこに哲学は始まっている。。
哲学は、「哲学しよう!」って力んで始めるものでもなければ、気づいたらもう勝手に始まっていて、そうなってしまうともうしかたがないし、このまま放棄するわけにもいかないから、せっせと芽生えた小さな不思議やギモンの種に水をやってだいじに育てながら、付き合っていく。
そういうごくごく個人的なことがらであり、そこには愛情や愛着、見守るというおおらかな気持ちが欠かせないエッセンスなのだとあらためて確信もしたので、これからまた具体的に疑って、ほんとにそうかな?と検証もしていこうと思っています。(ざっくり、安易すぎる)
読み始めて早々に、とりわけ興奮したのは〈自由〉という最初の項目で語られている「スクール」の語源、ギリシア語の”スコレー”の意味について。
学校のことを英語でスクールという。これはギリシア語のスコレーという語から来ているのだが、このスコレーというのは「閑暇(ひま)」を意味した。学校とはひまなところなのだ。ただし、ひまとは単に時間的余裕ということではない。ひまとは具体的な利害関係(インタレスト)を離れているということである。たしかに、学校の教室へ家の商売や父親の選挙や親類の裁判などを持ちこんではいけない。利害関係を離れて、あるものをあるとおりに見て教えたり、習ったりするところ、それが学校なのである。つまり、スコレーとはとらわれがないこと、自由だということを別の言葉で言っているにすぎない。”ひま”のことを昔日本では”つれづれ”といった。兼好法師は「つれづれなるままに」京の喜怒哀楽を見たのである。(中略)
ギリシア人が最も尊んだ態度は「観想(テオリア)」という態度であった。これは英語の理論(セオリー)の語源であるが、しかしギリシアの場合には、こせこせと理窟をこねまわすことではなくて、すべてのとらわれを捨て、影ではない真理を観ることであった。テオリアの語源は見守るということである。とらわれがあったのでは見て”守る”ことができず、むしろ、壊したり、色づけたり、ゆがめたりしてしまう。スコレーにあって悠然と観る。そうしてこそ物はそれがあるとおりにあらわになる。そのあらわさ、それをギリシア人は真理(アレテイア)といった。アレテイアとは「隠れていない」ということなのである。
ー〈自由〉p40-41
いまの自分は、何にどれくらいとらわれているかな?自由の意味を勘違いしていないかな?
どうしたら、壊したり、色づけたり歪めるのでなく、包みこんで見守るようなあたたかな雰囲気(それは甘やかすとか、見て見ぬ振りをするとかではなく、まっすぐに観るという上で保っていくこと)が生み出せるかなぁと、おおきくおおきく膨らんでいくあれこれを膨らみすぎて四方八方に浮遊していかないように、紐でくくって、重力で立つ。
物が自然にあらわになれば、自ずとそれにあった位置や場所、サイズや風景の中に溶け込んで互いに生かし合うことができる。それは「民藝」で語られることにも通じていると思います。
そんなイメージで、足元を固めたい2016年は、これまでの営みとこれからの営みを考える上で、(どこを生かして、どこをいまのサイズ感に合わせて調整するかという具合)個人的にも、しゃかいの雰囲気的にも外からイメージで眺める「哲学」ではなくて、自分が足や手を突っ込んで身体を動かし実践していくような「哲学」を流行らせたい!と意気込んでみます。
流行らせるよりももうちょい深く、根付かせたい…のほうが近いです。
そしてなにより、かっちょいい大人、女性になりたい。
どうぞことしも引き続きよろしくお願いします!
中條 美咲