母の不在、無知の”ち”(知・地・池・値…)

すこーん!と突き抜けるように清々しい朝。
もう何日か経つと、冬至ということで、お日さまの光がてっぺんまで弱まっていく、フィナーレの数日間ですね。

弱まって転ずる。そんな佳境の”いま、ここ”です。
ぬくぬく。かぼちゃ団子。。

 

ひたすら動き続けるなかで、芽生えたひらめきもすぐに掬いあげることなく、泳がせたまま流れに委ねる日々は、一層ふしぎな感覚でながれてゆきます。

忘れてしまうこと、何日かすると思い出すこと、そのとき気にも留めなかったことが、しばらくたって、もわわ〜んと浮かび上がること・・・様々な時系列で、構築されて偏ったりバランスをとったりしているせかいです。

ちなみにひらめき(思いつき)というのは、無責任でも許される事柄ですが、現実でそうした感覚を深めて磨き上げていくためには、軽々しいひらめきは軽蔑にも値してしまったり・・・。

感覚まかせから、根拠をもとめて石を積み上げる作業へ。
すぐにも浮遊して無重力のせかいに投げ出され身を任せるのではなく、重力を手にして、しっかり地面を踏みしめ自分の足で立つための、必要な時間でもありそうです。

ということで、ただいま絶賛勉強中。

知識というもの、生きていて日々変化していく知識もあれば、紀元前500年とか、数千年前から「すべてのものは水からなり、水に帰る」とか、「万物は流転する」といった発見や思想を巡らせ、構築し、記して現在に通じている悠久の知識もあって、そうしたkosmosにココロオドルまいにちでもあります。

多様で多面で多層なせかいを、どの角度から、どんな風に、遠く離れて外側から眺めたり、内側まで踏み込んで中から外を見るかによっても、ものの見え方は幾通りもあるのだと気付けると、大抵の物事に執着せずにおおらかなにんげんになれそうです。なれたらいいなと思います。

 

母の不在については、ここ数日ぼんやり考えていることのひとつでもあります。
ステレオタイプな女性像・家族のありかた・理想像に囚われているのは、むしろ自分の方で、
でもだからこそ、理想をなるべくすくい上げる形でどうやってこれからに結びつけていくのかというところが、来年以降の課題になりそうです。

それこそ宮崎駿監督の作品では、母の不在が目立ちます。
ナウシカの存在が一種の象徴だったり。

昨日の毎日新聞余禄に書かれていたこと。
「婦女、人に嫁するも、なお所生の氏を用ゆ…」

「女性が輝く日本」と掲げられていながらも、輝くのは通称で十分と捉えることもできるような現状も含めて、自分たちの立ち位置、理想、ちょうどいい収まりどころってどこだろうと、それこそ腰を据えて考えなくちゃと思いました。(さいごは真面目に。)

”母にもなりたいし、戦士でもありたい。”

21世紀の女性たちは、おのおのどんな理想を描いているのでしょうか。気になるところです。