冬は、はじまりのはじまりの季節です。
いつの間にか、終わりの終わりを超えて、冬になりました。
そう、季節は巡ります。
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今日は、ちいさな” 死 ”について。
通っている授業のなかで、「メメント・モリ」のお話がありました。
ちいさな矢印、無数のちいさな死へとまなざしを向けること。
生だけでなく、これからは、死をも思って生きていくことが大事。と、そんなお話です。
(ざっくり!)
6000年前に生きた縄文の人々にはすでに、メメント・モリのきもちがありました。
ささやかにそっと置かれた、ちいさな足跡の残る石板。
肌身離さず身に着けて、祈り、だいじに想うきもちです。
久しぶりにつけたテレビからは、こんなニュースが流れてきました。
生まれて間もない我が子が泣き止まずにうるさいと、家庭用のごみ箱に閉じ込め死なせてしまうという内容でした。
密閉したのち、ゲームを行っている間に窒息死してしまったちいさないのちです。
震災で失われた人たちをおもい、海岸に打ち上げられた貝殻の一枚一枚に、ちいさないのちの種子を添えて死者を弔う作品を生んだ河口龍夫さんのことも思い返しました。
2000年前の蓮の実が発芽したことを知った河口さんは、色鮮やかな蜜蝋で塗られた貝殻の腹にそっとその種子を備えます。「7000粒の命」「真珠になった種子」と題された作品です。
その行為は、祈りであり、死者を想うきもちそのものでした。
そして、そのきもちは、みらいのいのちを想うものでもありました。
生まれてたった16日で、母の胸に十分に甘えることもできずに死んでいった女の子は、どんな思いでごみ箱のなか、声をあげて泣き続けただろうと、その子が生まれた意味はなんだったろうと、いたたまれない思いになりました。
私たちはいったい、6000年の間に、なにを手に入れ、なにを損ねてしまっただろうかと考えてみましたが、よくわからなくなりました。
ひとつひとつの無数のいのちがこの間にすこしずつすこしずつ、その感触や、温みや、実感を損ねて無味無臭の、取るに足らないものとして扱われるようになっているのではないかと、ささやかな不安を覚えました。
ほんのちいさな、ひとつのいのちに手を触れることを恐れるきもちと、
ほんのちいさな、ひとつの死を想うきもち。
その両方が重なり合って、わたしの冬がはじまりました。
冬は、はじまりのはじまりの季節です。
いのちのはじまりと、いのちの終わり。
いのちもきっと、季節と同様に、直線ではなく、円環であるとわたしは思います。