神さまから離された両の手。

”「秋ですわね。」ややあつて、奥さんは さう言ひながら、空を見上げました。僕も釣られて、眼を擧げました。その日は、たしかによく澄みきつて、十月にはめづらしいやうな朝でした。ふと僕には、思ひあたることがありました。「まつたく秋ですなあ」と、口走ると、僕はちょつと両手を振つて見せました。すると、奥さんも同意するやうに、うなづきかへしました。”

ー 神さまのお手についての物語 『神さまの話』リルケ

まったく秋ですなあ。

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空気が澄みわたり、すっかりめっきり”気配”から”実体”へ。

淡く重なり合った透明なそらが、朝も夕もきれいな毎日です。

リルケのこのお話のなかで、神さまは大地や風をつくったあと、人間をつくる段になり、人間は練達しきった神さまのお手にまかせて、自身は休憩をしがてらその完成をたのしみに待っていたのです。

けれどなにやら黒ずんだ怪しいものが、空間を縫って落ちてゆき、右手と左手は互いにせめぎ合い、『そもそもは、人間です。人間に辛抱がなかつたのです。人間は、のつけから、ただもう生きたいの一心でした。わしらふたりの知つたことではありません。たしかに、ふたりに、罪はないのです。』と、神さまに弁明したそうです。

それをきいた神さまは、心からお怒りになって、両の手に『おまへたちとは、これ限りぢや。好き勝手なものを造るがよい。』といい、それ以来、手は、自分たちだけでやってみようとしましたが、神を離れては完成もなく、手はとうとう仕事に疲れ、今では一日中ひざまづいて懺悔しているとそうした一連が取沙汰されています。

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ここまでがお話の一場面。

その後、好き勝手なものを作ってよいと言われた両の手は、神さまを離れてさぁどんなものをつくろうととりくんだのでしょうか?

ものづくりの原点は、もしかすると神さまから突き放された両の手たちの、どうにかこのものを完成に近づけて、すこしでも神さまに機嫌をなおしてほしいといった、そうしたところにあったりするのだろうかなぁと、お手についての物語を読みながらわたしは考えたのでした。

それと同時に、

にんげんになって、まず初めにこのからだを、そのときの彼らはどんな風に確かめて動かしたのか、目を開けてひかりを感じ、肌にふれる風を感じ、上体を起こしてゆっくり立ち上がり、地面を踏みしめる感触や両の手がそれぞれに動くふしぎに出会い・・・

そうした感覚をひとつずつ楽しんでいる様子を思い出しながら、

やがて左右で違う動きをする両の手をたくみに操って、川や海にあふれる水、めぐみの雨をすくい上げたい一心で、まあるくやわらかな曲線のうつわを生み出したのかもしれません。

これまでに作られてきたたいていのものは、人間の右と左の両の手から生まれたものばかりです。

そのようにみぎの手とひだりの手をもち、知性と感性をもった人間は、今ではすっかり両の手をつかって生きていくための道具をつくる必要が少なくなりました。

それらは人間でなくても、優秀な機械によっていくらでも生み出すことができ、
人間の周囲にはそれ以上にやるべきことがいくらでも散らばっています。
直接の自然から、ものをつくる必要がなくなった私たちはこれからどんな風にものと関わりあってゆけばいいのでしょうか。

そうしたことを考えはじめても夜は眠くなり、わたしの両の手はパソコンのキーボードをかちかちと不規則に這うばかりです。

両手をつかって、土に水を混ぜ、さいしょに作られたぼてぼてとした歪なうつわを思い浮かべ、ものづくりの原初をすこしだけ想像した夜でした。

そしてまた、おはようの朝でもあります。

追伸:
神さまから離されたお手たちがその後どうなったのか、知っている人がいたら、いつかこっそりとわたしの耳元で後日談を教えてくださいね。