「わたしは見た。」「それを見た。」
「見る」という行為それ自体は、どこまでも自由で、どの程度、どんな見方・受け止め方をしたとしても、誰に文句を言われる筋はないものだと思う。
自分が「見た」のであれば、見たことに変わりはないし、そこから何を感じたり、どんな印象を受け取ってももちろんいい。それこそ「見る」をはじめとした五感はどこまでも開かれたものであってほしいと思う。
けれど同時に、「見た」といってすぐに、一件落着したくないような気持ちになった。
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目の前に一枚の絵画がある。
私たちは、いま目の前にあるこの絵を、どれだけ「見る」ことができているのだろうと、混み合った展覧会場の列に並びながらぼんやり考えた。
わたしは、目の前に置かれた一枚の作品を見る。
とても美しく、「美しい」と一言で片付けてしまうのは、なんだか惜しい気がして、 日常を遠くに押しのけて、じーっとぼーっと、・・・その絵が描かれだした当時の情景や、作者の心情、その景色から体感できる温度、空気の気配など…
できることならそうしたところまで、感じ入ってみたいという思いに誘われた。
現実には混雑した会場の中、ひとの間を途切れ途切れ、さっきの絵に視線をむけて、向こう側まで踏みいろうと試みたりしたのだった。
目の前には一枚の絵が置かれているにもかかわらず、通り過ぎていくひとりの女性。
女性はすこし手前の段階で、その絵を「見終わった」らしく、 彼女の視線はその先の絵へ、懸命に意識が向けられていた。
一枚の絵はひたすらそこにあり続け、こちら側の意識は、あっという間にそこを離れ、次々と移ろっていく。
なんともせわしなく、 息つくヒマもなく、見られる絵の方はすっかり疲れてしまうだろう。。
順番に済み印を押していくようなその感覚に、さめざめした瞬間でもあった。
*
彼は「見た」。
透明なまなざしでそこにある現象を。瞬間を。
確かめるように、濾過するように。
どこまでも深く、どこまでも遠く、
見続けようと、しつづけた。
彼の、”「見る」行為それ自体を、描き出そうとしたような抽象画に近い作品たちは、生前に展示されることはなかった” と、後半の彼の作品へ入る際、説明が書かれていた。
普段「見ている」目の前の景色が、ぼんやりと遠のいて漂うように、見えなくなっていった先に描き出されたそこに並ぶ作品たちは、100年以上経った今でも、色あせず、上へ上へ、立ち上がりわきあがり、どこまでも昇っていくような、血の色であり、生命力のようだった。
深く蒼くきらきらと、透明のみどりに生い茂ったその作品は、彼の霞ゆく目を通して描き出された泉のような鮮やかなせかいだった。
わたし(たち)が、ふだん「見た」と感じている物事と、視線のさきにある ”それ自体” との距離はひたすら遠い。
「わたしは見た。」「わたしには見えている。」といった多くの思い込みによって、実はその先の奥に鼓動する小さな呼吸や、きらりと見え隠れする僅かなひかりから、自ら遠ざかってしまっていることもきっと多い。
何を持って「見た」といえるのか、単に「見た」という事実のような思い込みを丁寧に退けて、見えないものをみつめてみよう。と、改めて感じたモネ展だった。
・・・
けれどやっぱり見る価値はあり、一聞は一見にしかずでもある。
何を持って”本物か”とか、わたしにはまだよくわからないけれど。
何度目かのモネの絵は、透き通るような光が向こう側から差し込んできて、より一層に美しく、その絵の中では、見えないはずの空気を感じた。
(あまりにもまとまりのない雑多な文章で恐縮です。ご勘弁。。)
それでは。