いよいよ今週末(あと2日!)で会期が終了する「ヘレン・シャルフベックー魂のまなざし」展について記しておこうと思う。
テーブルの上には、展覧会で思わず連れ帰った図録。シャルフベックのまなざしが、じーっとじーっと。こちらを見透かして、どこか遠くへと、その思いを投げ打っている。
ほんのわずか、顎先をキュッと尖らせて・・・
彼女の描く絵は暗い。色合いが単にそうなのではなく、もっともっと、奥深いところから。
彼女の持つ「暗さ」は輪郭をぼかすようにして、徐々に徐々に、浮きあがる。
それは彼女が、幾度も恋人に裏切られ、失恋し、絶望したからだろうか。
それも一部ではあるかもしれないけれど、わたしはそうは思わない。
彼女には、はじめからその才能と呼ぶべき洞穴であり、濃く深い闇が、自身の魂の根底に、ひっそりと息づいていたのではないかしら。と、
毎日顔を付き合わせるごとに、勝手な確信は増している。
「わたしは描くことに駆り立てられている。他のことはすべて消え失せていく。」
展示の最後、映像のなかで取り上げられていた、彼女自身のことばが印象的だった。
映像に使用している音楽は、見ているものの感情を必要以上に悲しませよう、彼女は悲しがったのです。と強調しているようで、そうした意図に強く憤り、少しだけ腹が立った。
彼女は悲しみ以上の底知れない強さと、プライドを持ち合わせているのだから。
安易な音楽で、同情や共感を誘うなど失礼だと思ってしまった。
今思うと、ヘレン自身のまなざしに吸い寄せられるようにして、感情がいつも以上に高ぶっていたせいもあったのだろうけど。
わたしは、そうした安易な共感を誘おうとする、音楽的な作為を頑なに嫌う傾向があることだけは、随分と自覚した。
彼女は深く自身の生命の根源をたどり、臆することなく、そうした暗い闇であり、洞穴へ目を向けた、たくましい一人の女性だった。そしてその表現は、深さや闇にとどまらず、一瞬の空気の緩みや、慈愛を感じられるものだった。
同じ女性として誇らしい思いがした。
かわいそうなどと言われる筋合いはないほどに、そのまなざしは透き通って達観していた。
正直さというのは時に、自身も相手も、同時に傷つける。
成長するにしたがって、まず始めに正直さを手放し、押入れの奥まで追いやって忘れ去ってしまうのは、そうしたせいもあるかもしれない。
彼女が哀れだったのは、正直すぎることだったのかと。。
どちらにせよ、わたしにとってヘレン・シャルフベックという女性は、そこはかとないたくましさと哀しさ、女性であることのプライドを貫いた、魅力を感じずにはいられない存在となった。
いつか機会があったら、本場フィンランドの景色とともに、再会してみたい。
最後に。
どうして男たちは彼女から、逃げ出したのか。
逞しすぎたのか。せめてその深みを理解し、寄り添えるひとがいたら、彼女はきっと、ものすごく大きな愛を発揮できるひとであっただろうになぁ、と。
時間がある方は是非、シャルフベックのまなざしに対峙してみてください。
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中條 美咲