久しぶりに、女性性について思い込み全開で、書いてみたいと思います。
きっかけは、YUKIの新曲PV。 シシヤマザキさんとのコラボレーション作品『好きってなんだろう・・・涙』のPVがまるっきり、ふんだんに、女性性 ”バクハツ” の内容となっており、嬉々と興奮したことから。
女性性について、実は半年ほど前に一度だけ触れたことがある。
そこでは、コーヒーと本を片手に、「彼女たちは思想を手にしようとしている」という内容で、哲学を求め始めた女性たちは、一体どんな未開の力を秘めていて、これからどうなっていくのか、その成長を見守っていきたいと書いた。(その姿のどこかに、自分自身の願望を重ねていることは承知の介。)その時、ブログの最後で、わたしはこんな風に記している。
「その火種は巨大に成長したり、爆発したりしない。ゆっくりじっくり。奥までじわじわと。食べて生きて産み育てる為の火種。そういう類いであってほしい。」
2014年11月24日 彼女たちは思想を手にしようとしている|紡ぎ、継ぐ
そう書いておきながら、今回は「バクハツ」と記すことにした。・・・そう、「爆発」。そこにはとても熱いエネルギーが充満している。まるで各地でふつふつと活発化して、今にも溶け出してしまいそうなマグマのように。
女性性は今年に入り、急速に成長し、解き放れ、止めどなく流れ出しているように感じる。(ずいぶん都合のいい勝手な思い込みの視点かもしれないけれど。) そんな風にして、近年、周りの女性たちは、それこそ自分の手で、今まで歪み続け、そのまま進んできてしまっていたあらゆる「バランス・調和」を、元に戻そうと動き始めた。(という仮説)
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そこでまず、考えたいのはこれまでに「歪み続け、進んできてしまったあらゆるバランス」ってなんだろう?ということ。
これについての手がかりを、最近の工芸・民藝的眼差しのムーブメントを盛り立てている一人、鞍田崇さんの著書『民藝のインティマシー「いとおしさ」をデザインする』という本の中にわたしは見出した。
参照:
・今、なぜ民藝か? 横軸の広がりから、縦軸の深まりへ。
・平凡への帰りみち
ここで鞍田さんが注目しているのは、2012年にデザイナーの深澤直人さんが日本民藝館の新館長に就任した理由を、就任から半年後の「新館長と語り合う会」の場で語られた内容について。
その会での深澤さんのお話は、ジグソーパズルのイラストを示しながら、プロダクトデザイナーとしての自らのスタンスについて説明するところから始まりました。
” デザインによって実現されるすべての美は周囲の環境との調和の中にある。両者の関係はちょうどパズルのピースのようなものだ。 ”
(中略)デザインとはパズルの最後のワンピースを探す作業にほかならない。そんなことをおっしゃっていました。(中略)嵌めてしまうと、どこが最後のピースだったのか気がつかなくなってしまう。それくらいにその場になじんでいる。そういう感覚こそが「ふつう」です。しかしながら、この日の深澤さんのお話の眼目は、さらに先にありました。
デザインによって生み出されるものが単独ではなく、全体との調和を志向するのはいいとしても、万一もともと、全体、つまりいまの喩えでいえばパズルそのものが歪んでいたり醜かったりしたら、どうでしょうか。(中略)美しいものを作りたいと目の前のピースの製作に専念すればするほど、醜くなるばかり。深澤さんは、現代の状況をそんなふうに指摘されたわけです。「近ごろはどうもパズルのほうがおかしくないか」と。だとすれば、いまデザインがやらなければいけないのは、パズルの最後のピースを探すことではなく、むしろパズルそのものを整え直す作業なんじゃないか。そういう作業が必要な時代になってきたんじゃないか。ー『民藝のインティマシー 「いとおしさ」をデザインする 』 鞍田崇より引用
鞍田さんは本の中で、ここで話される「パズル」というのは、個々のものが置かれたり使われたりする「環境」そのものだと言っています。
歪んでしまった母体であるはずの「パズル」、大前提となるはずの「環境」の歪み。
その歪みってどうやって直していけばいいのかを考えた時に、わたしがもう一つ手がかりしたいと思ったのは、以前、お仕事でインタビューさせて頂いた矢田部英正さんのこんなお話。
「ほかの国の服飾文化と比較したときに、とくに日本の着物や服飾の優れた点に気づかされることがあるのですが、それは、女性の母体の機能を損ねる様式が、歴史上のどの時点にも存在しないという点なのです。」
「東洋的な発想は、頭でからだをコントロールするのではなく、まずからだの内部を深く観察する「瞑想」の訓練が基礎になっています。呼吸や血液、内臓の動きを感じ取れるようになると、おのずと月の満ち欠けや潮の満ち引きといった、天体の引力とも呼応した「自然」を感じ取れるようになります。」
参照:
・「灯台下暗し」な自分のからだに息づく、伝統的な日本の暮らし|大人すはだ
・「姿勢が変わるとすはだが変わる。からだの内側を見つめて引き出す美の源泉」|大人すはだ
矢田部先生の著書、「たたずまいの美学」の中でも、そうした自分たちの中に本来持っていた身体技法や美意識について、具体的な事例を取り上げながら分かりやすく西洋と東洋を比較して語られています。
そのように考えてみると、パズルの枠組みに合う最後のピースを探す「デザイン」という行為自体、もしかしたらどこか西洋的で男性的に、頭でコントロールしているような感じがしなくもない。(だからそれが悪いというわけではなくて。)
本来この小さな島国に根付いた価値観は、決まった枠組みにはめ込むというのではなく、自然を「観る」自然から「受ける」・「感じ取る」というところにその多くが発生している。
そうした身体で感じ取る力は、月の満ち欠けに影響を受け、月ごとに、意識とは別の自然現象としての「月経」や「出産」に影響される女性たちのほうが、圧倒的に感覚的で自然の動きに敏感にならざるを得ない。(もしかしたら、女性の自然に対する感性自体が随分消耗されて弱々しいものになってしまったことが、パズルの歪みに関係しているのかもしれないけれど。)
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と、ここでもう一度、鞍田さんの「民藝のインティマシー」の中でのお話。
『パリ万博vs大阪万博』を参考にしてみると、柳たちが生きた「機械の時代」に対して、私たちが生きている1970年以降は、第二の太陽の獲得によってもたらされた「原子力の時代」というところに注目したい。
第二の太陽・原子力が持つ巨大な力。コントロールできると思っていたそれらは全くコントロールできないエネルギーだったということに4年前、各々が直面しての2015年現在。
・・・と一旦休憩。
どうにか分かりやすく、知的に関連付けて語りたいと思っていても、専門外の素人には上手にまとめ上げられる術もないので、あとは感覚を頼りに大いに飛躍してしまいます。。
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これからは「太陽から月へ、火から水へ、頭から身体・感性の時代へ。」
男性的な頭でコントロールの力も勿論必要でありながら、これまでおろそかにされてしまった「感性の回復」。母体の自然がなんなのか、それを探りつつ、取り戻す方へともう一歩、まなざしを深めていくことができたなら、そうしたところにようやく「真実なもの」の存在を見つけることができるのではないかしら。と。
ともすると、今後は「民藝」を含めたもっと大きな枠組み。それこそ「民具」や「風習」、「風俗」などの広大な「フォークロア的視点」を取り戻す時期にいるのではないかなと、昨夜B&Bで行われた畑中章宏さんと江川純一さんによる「日本残酷物語を読む」というイベントに参加した経緯もあり、感じたのでありました。
かなりざっくりと。
今はまだ、直感的で荒々しくごつごつとした月の表面みたいな、石の塊。
民藝も民俗学も、そうしたものを包括した東洋的な独自の「霊性」の根源へと、女性的な感性をフルに使って自由に行き来して、もう少し踏み込んでいけたらいいなぁと、私自身は思っています。
きっとそこには、こんなに長々と語るのではなく、詩のように、歌のように、説明のつかないあらゆる生き物の営み、遥か昔に失われた死せる魂の声など、混沌としたものものが、うごめき合っていることでしょう。
イベント自体の感想は、またの機会に。
参照:
・流動し、変動しつづけるものたち
・感覚的で直感的。やさしい陰陽とこよみの話
・僕らの未開 〜忘れられたことを知ること…
・民俗学者と写真。
それではこの辺で。
中條 美咲