島でうまれ、島でそだち、島を出て、島に帰る。

瀬戸内の小さな島・豊島。

その日は朝からザーザーと、強い雨が打ち付けていた。

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前日に泊まった民宿は、築80年の古民家。古民家と聞くと聞こえはいいけれど、それは掃除や手入れ、あらゆる目線が行き届いて管理されている場合であって、島の古民家はなかなか濃ゆい。

ふだんから鍵をかける習慣はないようで、至る所の窓や網戸の隙間から、多くの蚊や蜘蛛、虫たちの侵入があることはどうしたって仕方がない。人間以上に、人間以外の生き物たちの息遣いがそこかしこから感じられる、豊島は緑深いそうした島だから。

気休めに、キンチョールのスプレー缶を吹き散らしては、真っ暗な闇を背後に抱え込む海辺の一室で、一夜を過ごした。

壁には叩き潰された蚊が張り付いて固まっている。日に日に増えていくことがあったとしても、
日ごとに回収される見込みはないのだろう。なんとも無残で、印象的で、少しばかりの懐かしさが蘇る、そんな光景。

部屋と部屋の仕切りは襖一枚。二階の部屋を歩き回る音が家全体に響き渡る。
ここではあらゆる音がそのまま筒抜けとなって、襖を開けていようが、閉めていようが、あまり変わりがないんじゃないかと思えてしまう。それならいっそ開け放ってしまっても良いようにも感じたけれど、それではさすがに心もとない。

確固とした仕切り、隔て、密閉が完成し得ない築80年の古民家は、それはそれで印象深くおっかなびっくり記憶に深く刻まれた。
そしてその心もとなさを補うように、宿屋の亭主は親しめる人だった。

島の雨は風も強い。小さな島なので、スーパーもなければコンビニもない。前日、レンタカーで見て回った小豆島には「ファッションセンター しまむら」があった。大型のスーパーもホテルもあった。
ここ豊島には何もない。

強く打ち付ける雨に、海は湧き立ち、波は大きくうねり始める。
島から高松へ直行でいく、小さな「てしま号」は欠航と言われた。

島のひとは港に集まり、顔を合わせて自然とおしゃべりを始める。どこまでいっても、そうした日々の繰り返し。暮らしも仕事も分け隔つことなく繋がっている。仕事だから、休みだから。たぶんそういう基準で暮らしてはいないのだと思う。(実際のところはわからないけれど)
お金だって、この島に暮らす限りはそんなに必要ないだろうし、まずもって使う場所もない。

船が欠航になったおかげで、わたしは島生まれの一人の女性と仲良くなった。

彼女は生まれてから中学を卒業するまでの間、18人の同級生とともに、その島で育った。父は豊島、母は小豆島出身の、生粋の島っ子だ。
昔、小豆島を舞台とした小説『二十四の瞳』を読んだけれど、豊島は小豆島の8分の1ほどの大きさで、彼女に言わせると小豆島は大きな町。高松は都会。

それくらい、豊島は小さい。
中学を卒業するまで、クラス替えは一度もなく、みんな兄弟のように育つ。家主がいなくても、勝手に家々に上がり込んでお茶をすることは、日常的なこと。
ファミリーレストランも、カラオケも、島を出て、高松の高校に通い始めて経験することばかり。
島人の数よりも多い、一学年1000人規模のマンモス校のカルチャーショックは凄まじかったとか。

それでも彼女は島を出たかった。
テレビの中に映る都会の町に憧れを抱いた。
大学は、高松より少し遠くまで出たけれど、やっぱり大阪や東京へ出ておけばよかったと彼女は言った。

「どうしてみんなこの島に来たがるのかわからない。何もないのに。」
何もない島で生まれ育ち、うんざりするほど濃く深い森、ひたすら長くて真っ暗な夜を知っている彼女たちは、外からやってくる旅行客が一体何を目当てにこの場所へ来ているのか、わからないと言っていた。

瀬戸内芸術祭が始まってから、訪れる人が増えたんですか?と聞いてみたら、その通りだと言っていた。今回行くことができなかった豊島美術館は、今では海外からここを目当てにやってくる人も多い。芸術祭のおかげで、船の便数も増え、直行便も始まったとか。
それまでは、島外の人に出身を聞かれても「豊島」では通じないので「小豆島」と言っていたとか。

今では豊島美術館は、瀬戸内の中でも注目のスポットなので、不思議な気持ちと、あくまでも芸術祭は外から来たもので、島内の人たちにとっては、まだまだ未知であり、異質なものであるとも言えるような感覚も覚えた。実際、島に戻り住む彼女も、美術館や直島にもまだ一度も行っていないといっていた。たぶん、それが自然だろうとも思った。

観光で栄えていくということは、かなりの部分がフラット化されることにもつながっていく。
大勢の人がこうした何もないただ在る暮らしの中に足を踏み入れ、不便と思うか、つまらないと思うか、羨ましいと感じるかは人それぞれだろう。
けれど多くの人が訪れるということは、今までは野放しに放って置かれた様々なものに、あらゆる形で手を加え整え、見栄えを良くすることにもなるのだろうと思う。

最近至る所で目にして耳にする、これからの地方のあり方や、人口減少、いままでなんとか細々と続いてきた、細やかな職人さんや技術者さんの跡を継ぐ人がおらず、ここ5〜10年が過渡期と言われる状況だったりを眺めたときに、わたし自身はどういう風にして向き合っていけばいいのだろうとその都度立ち止まり、きょろきょろする。

 

真正面からそうした動きにスポットをあてて、照らし出したり、大勢の人にこの状況を知らせたい。と思う人にもたくさん出会う。そうした人たちはとても頼もしく輝いている。

そうした人々へ、共感を抱きながらも、それとも違う関わり方を求めてしまう自分もありありと感じる。こちらから意識して(相手も意識をして)光をあてて、光のなかで、語ってもらうというよりは、その土地を歩いて、風に触れて、何かや誰かが勝手に・突然、語り出す場面にたまたま遭遇してみたい。

そうした意味では、この旅の途中でたまたま知り合った島生まれの女性との出会いは、良くできた偶然。これからの道しるべ的、経験だった。

 

さいごに。

ここで触れた何もない景色のなかには、かつて多くの〈わたしたち〉が大切にしていたその場所に根付いた日常が残っているだけでなく、個々人の望みにかかわらず、そうして生きて繋いでいくしかないというような、一種の諦めも含まれているのだと思う。

諦めにも似た、覚悟といってしまっては大げさな、その土地に生まれた「宿命」みたいなものを、放棄することなく、続けているこうした営みを続ける人たちこそを、大事にしていかなきゃいけないよなぁと思うばかりでありました。

参照:
瀬戸内のきわ、豊島の景色|紡ぎ、継ぐ
地方再生とアートのつながり|紡ぎ、継ぐ
今しかない、時間がない、行くっきゃない?…|紡ぎ、継ぐ

 

それではこの辺で。

中條 美咲