朗読から動き出す ”ものがたり”

i love you  ~

という歌い出しで始まる、トウヤマタケオさんのピアノ伴奏曲に合わせて、その物語は確かに立ち上がり動き出した。

翻訳家・柴田元幸『MONKEY vol.6』刊行記念ツアー

パトリック・マグラア『オマリーとシュウォーツ』。

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柴田さんの朗読の息遣いは荒い。
流暢に文字を追って読んでいくというのではなく、物語の奥までぐーっと入り込み、そのものになって躍動し語り始める。猫背な容姿でひょろりと立ち上がり、鋭く何かを捉えている眼差しからは、恐ろしいような、不気味な空気すら感じられた。

ドキドキしてハラハラして、呼吸が覚束なくなってしまう。
一体どんな風に、この場面に立ち会って、どうやって受け止めればいいんだろう。
一瞬の混乱があり、けれどそんなことは御構いなしに、どんどんどんどんそれ自体は立ち上がり、動き出し流れるように、切り取られた物語の一部分の情景は目に浮かび、存在となり、確かなものとして、その姿、その匂い、湿度、冷たさ、恐さ、悲しさ・・・。
生きていて、実際に感じてしまったような、痛みにも似た痕跡を残す。

 

奇妙だ、怖い、行かないで、見たくない、不安だ、どうしよう、死んでしまった。
でも生きている。

 

物語があのように自ら立ち上がった時、それはもうそれ自体として、確かに存在することになる。
声となって音となって、逃げることもできずに私たちはその場に居合わせてしまった。目撃してしまった。触れてしまった。

目で文字を追って、読んでいくのは全くの別物。
それは生き物そのものだった。

わたしはすっかり、物語のほんとうの姿に、まるごとのみ込まれ、身ぐるみを剥がされた。
そこには高尚な言葉も、飾り付けた装飾も、解読に解読を重ねた説明書きも全く太刀打ちのできない、生温かくぬめっとした生きたなにかがぽつんと現れた。
しばらくすると、あらゆるものは静まり返り、穏やかにまったりと打ち寄せる、透き通った波打ち際のような景色が広がって見えた。

 

さてさて、これから、どうしたらいいのだろう。

そんな風に途方に暮れながらも、そうした場面に立ち会えてよかった。

 

朗読会の最後に、わたしは柴田さんにひとつの質問を投げかけてみた。
「朗読を聞いていて、驚くほどに匂いや手触り、恐さや肌にまとわりつく感覚を直に感じました。そういった感触は、外国文学ならではの特徴なのですか?日本でも、そんな「感覚」を感じられる物語が今までに存在していましたか?(日本の物語ではこれほどの感覚はあまり感じられないような気がして)」というような内容だったと思う。

それに対して柴田さんは、日本の小説文化をどこから捉えるかにもよるけれど、いわゆる日本の文学は私小説がその大筋となっていて、「私」の身の回りの細やかな心の動きなどは繊細に描かれているけれど、アメリカやヨーロッパの文学のように神の視点、全体を見渡して視点自体が自由に行き来するような表現は少ないように思う。それはしばしば説明的になりすぎてしまって、あらすじを読んで終わったという印象を受けることも多い。
だから僕は、日本の小説よりも、海外の物語に惹かれるんですね。

というようなあらましの、返答だった。

 

一貫した第三者、神の視点。
それによって、柴田さんの朗読で立ち上がる物語の登場人物たちは、生者も死者もみな同じ土俵で、なんら変わらず存在することが出来るのかと。
(もしかすると、日本で言うところの宮沢賢治やアイヌに伝わる物語に近いのかもとか。)

自由に躍動し、動き出し、存在するために必要なのは、整然と肩を並べた文字や言葉ではなくて、それを超えて、その背景に流れる音楽であり、息遣いの方かもしれない。

そうしたことも含め『MONKEY vol.6』の特集、「音楽の聞こえる話」が予感させる企みは大きい。

柴田さんのように(トウヤマさんの演奏する音楽とともに)、物語が丸ごと動き出してしまうようには、なかなか読めないだろうけど、わたしももっと「音楽の聞こえる」その奥へ没入してみたいと思った。

ただ、その際に気をつけなくちゃならないことは、きちんと帰り道を知っているということ。

音楽は時に、様々な境界を超えた世界への入り口と繋がってもいるだろうから。

 

それではこの辺で。

 

参照:
音楽の聞こえるほうへ。|紡ぎ、継ぐ
雨のせとうち|紡ぎ、継ぐ

中條 美咲