蛇を見たことがあるでしょうか。
薄ら暗い軒下のあたりや、石垣の隙間のようなところにはよく
脱皮した蛇の抜け殻があったことを覚えています。
蛇という存在を悪しきもの、邪なるものとして、神話や民話の中に登場させる姿もあれば、
ニシキヘビのように、一家の軒下に一匹いると、その蛇が家の守り神として
大事に、受け継がれていく場合もありました。
姿が見えなくても気配を感じる。であるとか、抜け殻のリアルから、ほんとうにいる(いた)のだなぁと感じられたことは、今思うと豊かさのひとつのようにも思えます。
それと重なる話ではないかもしれませんが、
朝出た蜘蛛は神の化身なので、生かしてやらなければならず、
夜出た蜘蛛は悪しきものなので始末してしまっても良いであるとか、
朝も昼も夜も、同じに家の中、その辺にいる蜘蛛であるはずなのに、
朝と夜でその役割、背負わされる意味合いが180度異なってしまうのは
今思えば不思議でならないと同時に、不思議である以上のなにか深い意味合いのようなものがあったのかしらと、惹きつけられる魅力があります。
今読んでいる河合隼雄さんと中沢新一さんの『ブッタの夢』という本のなかで、河合さんがこの対談がされた以前より持論としておっしゃっていたという
「誕生以前、死以後」という価値観の存在に引き寄せられました。
それと通じるように
「凝縮された断片のようなもの、物語にもなっていないもの。
グレートスピリットは自分の考えを岩や木や風の中に隠して、解読されるのを待っている」
という思想感がとても愛おしく思えます。
自分たちが持ち合わせている時間のなかだけで、意味を意味として立派に仕立て上げ、理解して、解読して、証明していくというのではなく、
ことばになっていないもの、岩や木や風の中に埋もれている存在に気付き、
必要以上のことばではない、ゆるやかな肯定のまなざしを向けられることができたなら、
それはそれとして、私たちを越えた先のじかんになってもあり続けられるのではないかなぁと非科学的な妄想は膨らみます。
「ことば」というもので表現しよう。汲み取っていこうという気持ちももちろん大切ながら、
これからはもう少しゆるやかに溶け出していて、なんとも存在として捉えきれないものの方へと近づいていって、包み込まれ、漂ってみて感じた中からなにかが生まれてくるのをじっと待つ。
そういった作業へ分け入りたいと思ってしまいます。
そして、それはもうなにやら説明もつかない類の(やんわり見なかったこととして通り過ぎたい)異質さを纏うということなのかもしれません。
そんな勇気があるのかどうなのか。
いっときの夢、まぼろしで萎んでいくのか。
揺れ動きます。
降り出した雨は多くの善悪やもろもろ勢い付いた人間の感情を洗い流してくれています。
あらゆるものを洗い流した雨水は、本来下水道に流れつくべきではなく、
大地へとゆっくり染み込んでいくものであってほしいと思います。
循環とは本来そういうものであるべきです。
それではこの辺で。
中條 美咲