すばらしい一冊の本に出会ったとき、その本はいつ書かれたものであるとか、著者の生まれた西暦から今現在を逆算し、生きていれば何歳。であるとか、何百年も遡った時代から、すでにこんなことが考えられ、憂い、変化させようと行動にあたる人たちがいたんだ。ということに直面し、気づかされ時、どうしようもなく多くの感情がうごめきだしたりする。
*
最近いろいろな方面から、生き方・働き方・暮らし方・住まい方、大きな資本や産業革命が押し寄せてくる以前の各地域に根付いていた人々の暮らしの在り方について、興味を喚起される機会が多く、それにまつわる本を開いてみたり、話をきいたりしているのだけれど、その中で、とくに掘り下げてみたいと感じたひとつが『民藝』という切り口だったりもして。。
知識がないなりに自分で考え、それについて書かれたものを読んだり、触れたりしていく中で感じることは、『民藝』の「民」に当てられた「民衆」という価値観が今ではほとんどその当時使われていたのと同じようにはイメージできないということ。
また無銘性ということであれば、多くの人がなにかしらの「つくり手」だったかつてに比べて、今の時代に大半を占めるのは「つくり手」ではなく「消費者」で、「つくり手」の方がよっぽど貴重であったり、高尚な存在として見上げられ、取り上げられる存在になっているということから、かつての『民藝』とされるものを今の時代に求めても、その中に含まれた意味合いは随分変わってしまっているんじゃないかということ。
そうした時に、日本の民藝運動に先駆けて、イギリスのつくり手たちの中で行われていた「アーツ・アンド・クラフツ運動」を統率していったウィリアム・モリスについて書かれた一冊を読んだ。
1880年代に生きて、当時のイギリスの産業革命後の資本主義を批判し、社会主義への理想を口にして実際に活動していく彼の思想は、口にするのも躊躇ってしまうような美しきユートピアで溢れている。
そういえばここ最近、こんなに美しい理想に触れる機会ってなかったかもな。と思えるほどに。夢と現実は随分長い間、もしかしたら分断され続けていたのかもしれないと、そんなことを思った。
本来は現実の先には夢があり、それは美しい理想であってもいいはずなのに。
そうしたことを忘れてしまわないように、また、巨大な機能の辻褄を合わせることがなかなか困難になっている(ように感じられる)近年だからこそ、ウィリアム・モリスの理想は再び枝葉を伸ばし、今度は現実としての花を咲かせられるのではないかしらと想像したりして。
*
彼の言葉を用いて記された、本文の内容をいくつか引用してみます。
モリスにとって、「このような芸術は偉大な贈り物のように思われる。その労働によって生活する人々の全体によって知的に作られた芸術、彼らが動く方向に動き、彼らが変化するにつれて変化する、彼らの思考と要望とともにある本能、彼らの美的感覚や生活の神秘さの真の表現、彼らのよろこびから生まれ、彼らの悲しみを乗り越えて生きる芸術」、これがモリスの言う民衆芸術であった。
「作る人と使う人の幸福として民衆によって作られ、民衆のために作られる芸術の種をまくうえで絶対に必要なものである」と彼が確信する美徳とは、「正直と簡素な生活」である。モリスはすでに芸術の領域から道徳の領域に踏み込んでいる。しかし、彼の思想からすれば、「芸術を道徳・政治・宗教から分けることはできない」のである。
「人の手によって作られるものは形を持つ。それは美しいか、みにくいかである。それが自然と合致していれば美しく、自然と不調和であればみにくくて自然を駄目にしてしまう。これらの芸術は、ある人の美のよろこびの表現のために作られた大きな体系の一部である。すべての人々や時代はそれを用いた。それらは自由な民族のよろこびであり、抑圧された民族の慰みであった。宗教はそれらを用い、そして高めた。またそれらを乱用し貶めた。それらはすべての歴史と関係しており、その明白な教師であった。とりわけ、それらはその生活がそれらを作ることにすごされる工芸職人にとって、また、一般に、日々それらを見ることによって影響される人々にとって、人間の労働を和らげるものである。それらはわれわれの労苦を幸せにし、われわれの休息をみのり豊かなものとする。従ってわれわれは労働を楽しいものに、よろこびに、そして芸術そのものにしなければならない。そうすれば労働を呪ったり、忌避したりすることはなくなるだろう。」
モリスによれば、「富とは自然がわれわれに与えてくれるものであり、理性的な人が自然の賜物から彼の理性的な使用のために作り出すことができるものである。日光・新鮮な空気・汚染されていない地表・必要な、そして品位のある食物・衣服・住宅、あらゆる種類の知識の蓄積とそれを広める力、人と人との間の自由なコミュニケーションの手段、芸術作品、人が最も高尚で思慮深い時に想像する美、すべてこれらのものが人々の自由で男らしく、けがれのないよろこびに役立つ。これが富である。これ以外に私は価値あるものを考えられない」とモリスは言う。
「将来の『政府』について言えば、それはヒトの政府というよりはモノの管理となるだろう。政治体としての国民は存在しなくなる。文明は大・小様々なコミュニティの連合を意味するようになる。一方には、町とか地方ギルドがあり、それはその運営が直接の集会で行われる。(中略)従って、我々は従来考えられてきたような政府を廃止するようになる。人々の間の自発的協力が必要な習慣となり、社会の唯一の絆となるだろう。」
『ユートピアだより』のなかに、科学的、実証的、実践的な政策とか計画とか、体制移行過程のマスター・プランとか、あるいは、革命後の精密な政治機構とか経済システムを探しても無駄である。またそれらがないからといって、空想的社会主義として一蹴してしまうことはまちがっている。(中略)そこから、人々は無限のインスピレーションやイマジネーションを引き出すことができる作品である。
2『ユートピアだより』の鳥瞰図
質疑応答
「それではお客さま、どうぞ何でも質問してください」とハモンド老人はわたしをうながした。わたしはまず尋ねた。「あなたがたの国では、子供たちへの教育はどうなさっているのですか。」
ハモンド老人は話しはじめた。「そうですね、教育はすっかり変わりました。一九世紀のころは、教育といえば、くだらない知識を子供たちにつめこんで、子供たちを責め立てることでした。今日では、教育はすっかり変わりました。子供たちの好奇心をはげまし、子供たちが自ら知識を得て、どんどんと自らの能力を発展させていくようになりました。知識は、誰でもいつでも得られるようになりました。事物からだけでなく、社会や自然界からも。」新生活の開始
「社会はちょうど生まれかわろうとしていたのですよ。古い社会が新しい社会へ移行する時、生みの苦しみがともなうのは当然でしょう。新しい社会の新しい時代精神は、生活のよろこびであるべきですよ。人類の住むこの大地、この大地そのものであるような自信に満ちた愛であるべきですよ。しかし事態はそのようにスムースに運んだのではありません。革命後は様々な人々の混乱がみられました。功利主義的な快楽がわれわれの目的であるかのように思われた時期もありました。このような時期から人々を救ったのは、これまで芸術をよばれてきたものの生産でした。人々はその生産により高い、より鋭いよろこびを見出したのです。そして、それが人々の労働の本質というべきものとなったのです。こうして、人々は自らの仕事と労働を自らに回復したのです。生きるよろこびと自己実現をそこに見出したのです。
エピローグ ー永遠なるウィリアム・モリス
モリスがこの世に生きた時代からすでに一世紀以上経過して、われわれはモリスの理想の実現に向けて、そして美しい市民社会の成熟に向けて、着実な歩みをしてきたことを自覚するのである。モリスが述べたように、市民の意識において大いなる変革が起こっているのである。これこそ「静かなる革命」(R・イングルハート)ではないだろうか。人々は「モノ」よりは「こころ」や「美」を、「量」よりは「質」を求める時代に入った。
ウィリアム・モリスは、われわれ市民の「導きの星」として天井高く輝いている。そして、その星の下、われわれ市民の歩みは世代から世代へと永遠に続いていくのである。ー イギリス思想業書『ウィリアム・モリス』 名古忠行 著
今の自分たちの向かっている方向性や、今現在の自分たちの居場所は、この本で書かれているうちのどの辺に位置しているかも含めて、やっぱり理想は持ち続けたい。
そうなった時に思い描く、自然に合致した美しい理想ってなんだろう?というと、もしかしたら根本のひとつは、エネルギー問題というところにつながっていくのかもしれないとも。
エネルギーの選択は、わたしやあなたの哲学そのもの。|紡ぎ、継ぐ
これに関連することを、『〈民藝〉のレッスン つたなさの技法』という本から合わせて引用してみます。
鞍田 そういう意味では、国の政策もそうなんですけれども、結局エネルギーの問題というのは自分たちの足元の問題ですよね。それを見えないところ見えないところに持ってきていた、いつの間にかそういう風に懐柔されてしまっているところがありました。
中沢 だから僕はこれから一番重要な学問はエネルコロジーだと思っているんです。エネルギーの存在論というものです。エネルコロジーというところに地盤を捉えると、ロハスとかスローライフというものは派生的なものに見えて来るんですよね。それはどういうエネルギー存在の基盤に乗っているの、というところから入っていかなきゃならない。僕は民藝というのもこれなんじゃないかなと思います。エネルコロジーの美の表現としての民藝なんじゃないかと思うんです。しかもそれは、太陽エネルギー系のエネルコロジーの上に乗った、美の表現としての民藝という風に定義を変えていくことができる。そうするとさっきの話のように「民」というのをどういう意味に変えていくかという議論をする時、このエネルコロジーの上に乗っていくと色々なものを峻別できるかもしれないですよね。
ー 中沢新一さんと、著者の鞍田崇さんで行われた対談
「民藝は私たちになにをもたらすか?」より
エネルコロジーって、とってもかわいい響きで好きだなぁと思いながら、そういったところまで包括された「民藝論」であり、「ユートピア」に育っていってほしいと切に思いました。
それではこの辺で。
中條 美咲