透明な眼差しの先にある「いつか見た風景」。

限りなく透明な眼差しを手に入れることができたとしたら、自分にもこんな写真が撮れたりするんだろうか?

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図書館でたまたま手に取った、北井一夫さんの「いつか見た風景」という一冊の写真集があまりにも面白く、食い入るように見入ってしまった。(相変わらず入ってばかりいるここ最近。出口が何処にあるのかなんて、知らぬ顔。)

「いつか見た風景」には、1964-1965年にかけての全学連のデモの様子を撮影した「抵抗」であったり、1969-1972年にかけて、成田空港反対闘争が行われた農村「三里塚」の光景や、1973-1981年にかけて撮影された、農業中心の村社会と人間関係が崩壊し、過疎化が進行していた古き良き時代の日本を捉えた「村へ」などがそれぞれのまとまりごと掲載されている。

昭和の終わる数日前に生まれたわたしにとって、ここに切り取られた作品の多くは、自分が生まれる前の出来事であり、「古き良き日本」も実際に体感しているというよりは、どこかで理想化された日本の原風景・象徴といったイメージで、そちらに向かう眼差しは懐かしさというよりも、掻き立てられる好奇心と「新鮮さ」そのものだった。

 

意識ある頃には成田空港も、東京ディズニーランドもすでに完成していて、そのことに疑問を抱いたこともなく、完成以前、その場所にはいくつの集落があり、どんな風に人びとが暮らしていたかと想像したこともなかった。
今になって知ったところで、もうすでに東京の一部として不動の位置にあるのだからそれ自体が揺らぐことはあり得ず、ここに写っている「三里塚」や浦安の「境川」の景色は今はもう見当たらない。

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「昔はこんなことがあったんだ」は現在に至るまで粛々と続いていて、現在進行中の沖縄基地移設問題も揺るぎない足取りの元、ブルドーザーや強い力によって押さえ込まれてしまえば、何年か後には自分が生まれた時からそこには基地があり、「昔はこんなことがあったんだ」という少年少女が昔を振り返ったりする対象として、「いつか見た風景」の一部に過ぎない事柄になってしまうのだろうかと想像してしまう。もちろんそれじゃだめなのだけどね。
一冊の写真集から、昔と今が繋がって、「いつか見た」は過去でも未来でもなくそんな足取りの延長のなか、どこにでも埋もれているし発見できるということを気づかされることとなった。

 

そんな風にあれこれ考えてしまう一方で、大きな社会の力や渦とはずーっと離れた(置いてきぼりの)ところにある日常を切り取った作品がとても楽しかった。

お気に入りは〈嫁入りの日〉岡山県久米1974、〈店屋〉 秋田県湯沢市1974、〈峠〉長野県下栗1973。

民俗学的にとか、写真家としての大義名分みたいなものでもなく、こういった土地や風景に自ずと関心を寄せられて、歩く速度とゆっくりとした呼吸のリズム、” 透明な眼差し ”を通して切り取られた作品たちは、シャッターを押していく過程の時間の流れのなかにあるようで、心地よかった。いいなぁと思った。

何度見ても飽きずに楽しめる写真集ってそう多くはない。見え透いた意図がないだけに、当時を知る手がかりもふんだんに詰まっている。

こんなに格闘してもうまく言葉にできないのが残念だけど、、今度展覧会があったらぜひ生で作品と向き合ってみたいと思うばかり。

 

写真のこと
北へのあこがれ。—「北へ、北から」写真展より|紡ぎ、継ぐ
民俗学者と写真。|紡ぎ、継ぐ
新しい地図の描きかた|紡ぎ、継ぐ
鳥肌は足下からやってくる|紡ぎ、継ぐ

 

それではこの辺で。

中條 美咲