しばらく前のこと。荻上チキさんのsession22で中森明夫さんという方をゲストに招き、著書「寂しさの力」についてお話しされていた。
その日はあいにくのお天気で、電車から眺めるランドマーク群は霧雨に霞み、ポッドキャストを聴き終わった後で、映画「おもひでぽろぽろ」の主題歌「愛は花・君はその種子」を聴きながら歩いて帰宅していたら、不思議にも浄化されていくように、泣けて泣けて仕方がなかった。
*
それからしばらく「寂しさ」の正体について自分でも深めてみたいと思いながらも、なかなかそうできずに、物語調にしてみたりしながら通り過ぎていたのだけれど、今度はcakesで誰もが持つ「さみしさ」の正体として同様の内容が取り上げられており、もう一度それについて考えてみたくなった。
中森さんは震災直後、それまで疎遠だった著者のお母様と頻繁に連絡を取り合うことになったそう。
インタビューでお話しされている一部を引用させてもらいます。
”それが自分でもすごく意外でした。別に母のことが嫌いなわけではないし、喧嘩してたわけでもないんですが、何年かに一度しか田舎に帰らないし、ずっと疎遠だったんです。けれど、ああいう時にとっさに電話したということは、僕にとっていざという時に一番心配な相手が母親だったんだと気づいたんですね。
震災以前は、母から電話がかかってきても、正直相手をするのが少し億劫でした。愚痴とかを延々話すし、ぼけてきているのか、時々何を言ってるのかもわからないですし。忙しい時は電話にも出なかったです。(中略)
震災から3ヶ月位たったころですかね、母から電話がかかってきて、突然泣くんです。散々愚痴を言った後に、わんわん泣いて「さみしいさみしい」って言うんです。お盆には帰るからとなだめて電話を切ったんですけど、すごくやりきれない気持ちになりました。
うちの父親は僕が20歳のときに亡くなってまして、母は40歳くらいからずっと1人で暮らしてきた。経営していた酒屋も不景気で潰れてしまった。やっぱりさみしかったんだと思います。でも僕が何かできるってわけでもないし、それでやりきれない気持ちになったんです。”
そしてその時に「寂しさ」についてツイートしたところ、新潮社の石井さんという方の目に止まり、この本が出版されることになったのだとか。
*
先週末は母の日ということもあり、各々に「母親」のことを考えるタイミングでもあったと思う。
いろんなことがひと段落し、夕食どきに樹木希林と役所広司が主演する『わが母の記』という映画をみ始めたところ、結局最後まで観てしまった。
この映画は、作家・井上 靖の自伝的小説を映像化したもので、中でも晩年の、認知症が進行した八重(洪作の母)を演じる希林さんの姿はもはや人間の境地を越えており、空(くう)を見つめる1シーンはあまりにも鮮烈だった。
母と息子の間に隔たる宿命(業のようなもの)であったり、それに翻弄される家族を描いた物語としても素晴らしく、あの時代だからできたことなのか、井上靖の作り上げた家族の強い結びつきによって成り立ったことなのか、それはわたしにはわからない。どちらにせよ、自分の親を最後まで子供自身、その孫たちの手で見届ける意味深さを感じる本当にいい映画で、普遍的な物語だった。
そしてどこまでいっても(どんな時代も)母子の間にはものがたりがあり、どんな天才・大物と呼ばれるようになった大人たちも、立ち返るところは母親にすがる子供時代があったということ。そして母親(もちろん父親も)との関係にはそれぞれ悩ましいものを抱え、そんな「さみしさ」の種を幼少期から少しずつあたためて大人になった結果、さみしさが大きければ大きいほど、そのエネルギーがものすごい芸術作品に変換されたり、はたまた思わぬ方向で力を発揮されてしまったりする。
誰もが持ち合わせている「寂しさの力」には、自分たちでは気付かないものすごく大きなエネルギーが秘められているのだと思うと、勢いが凄まじかった成長時代もひと段落した今、社会全体的に各々の「寂しさ」を考えてみるちょうどいい時期に差し掛かっているのかなぁと、勝手に想像してみたりしたのでありました。
それではこの辺で。
中條 美咲