こぶしをギュッと握りしめ、とびきりの笑顔で駆け寄ってくる一枚の写真。
そこに写る小さな少女の名前は「美咲ちゃん」。
わたしと同じ名前で(23才も年下で!…随分大人になりました)満面の笑みを浮かべる彼女の姿に思わず自分の幼少期を思い浮かべてしまった。
”「わたしのおうちはここ。たくさん家がつながっていて良いでしょ」と屈託なく話す美咲ちゃん。生後1ヶ月で入居して以来、仮設住宅で育まれた命は、幼稚園に向かって駆けるほど、大きくなった。” 【写真・文 梅村直承】5日付 毎日新聞一面より
3月5日の今日は、私事ではあるけれど2度目の結婚記念日にあたる。そしてこのブログ【紡ぎ、継ぐ】を始めたのも実は1年前の今日なので、いろいろ重なってささやかに節目の日付だったりする。
ようやく1年。気づいたら2年。そんな兼ね合いだ。
宮城県の仮設住宅を ” わたしのおうち ”として元気にすくすく育ってきた年下の美咲ちゃんやご両親、周辺に暮らすみなさんにも同じように1年、2年、3年…という月日が流れてきた。そして4年目がもうすぐ訪れようとしている。
わたしが今感じている1年、2年と、そこに住まう人たちが感じている月日の流れは、暦の上では同じであって、おそらくのところまるきり違う流れ方をしてきたのだろうと想像する。
” 暮らすこと” や ” 住まうこと”。更にいうと” 生きること” に自分が焦点を当て始めたきっかけも、多分4年前のあの日にあったのだと思う。
世間でじわじわ広がりつつある” ライフスタイルブーム ”だって、深いところではつながっている。
そんな意味では間違いなく共通意識として、多くのヒトの記憶の中に、刻み込まれた出来事が東日本大震災だった。
それ以前だって、キリがないくらい何度も何度も、自然災害は頻発していながらも、ようやく1年。気づいたら2年。こうして時を刻み続けられていることは、なんだか不思議でありがたいことだと思う。
発生し、月日を経ても元どおりとはいかない中で、それでも暮らしを続けていることにささやかな灯りをともして、自分のこととして向き合っていければ一番いいのだろうけれど、それは随分きれいごとで。
実際には目の前の明日・明後日の、その先の自分たちのことでいっぱいいっぱいになっているのが常である。
そうしてようやく、” 暮らすこと ”を「見つめ直す」っていったいなんだろう?とふと立ち返る。
” 暮らすこと ” の原点回帰は、そんなことを考えずに日々” 生きていること ”だったりするのかもしれない。
それを見つめている暇などなくて。みんながみんな” 生きている ”。
” 見つめること ”と” 暮らすこと ”は、もしかすると背中合わせの鏡のように。ものすごく乖離した行為でしかなくて。
そんな中、自分が ” 見つめている ”のだと思っていても、他の誰かはこちらのことを” 生きている ”の対象として見ているかもしれないし、その逆、その連鎖、四方八方の小さな鏡が写し出す姿が折り重なって、誰かが誰かの暮らしの中で、ささやかなあかりになってお互いに” 生きている ”のが一番いいなぁとそんなことを思う。
揺れ動く大地を鎮めるために心を豊かにする。
ことばは呪文。ことばはまじない。ことばの持つ力は大きいからこそ、これから先はまあるいひらがなを使って、まあるいことばを育てていきたい。
なにせ自然の中にはとんがりも出っ張りもうねりも裂目もたくさんあるけれど、外から見たら地球はまあるい。
いつか大人になった美咲ちゃんと、そのとき彼女の目に写るせかいについて、話がしてみたい。
それではこの辺で。
中條 美咲