あなたを救える可能性。

「おまえにサンが救えるか」(もののけ姫)

「僕のためにいろいろと考えてくださって、ありがとうございます。」(村上さんのところ

 

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わたしがあなたを救える可能性について、考えてみる。

このふたつの台詞は、全くつながりそうもないようで、なぜだかお互いに向かい合っているようにわたしには思えてしまった。

誰かを救おうとする覚悟も、誰かに想われることによって自分が背負ってしまう色々も、結局のところ紙一重というか、お互い様なのだろうなぁと。

救いたい、してあげたい、せずにはおれない、こうなってほしい・・・。
たくさんの表現があるけれど、大きな枠組みでいうと「愛情」という部分に集約されるんだろう。その愛情がまっすぐなのか、ねじれているのか、歪んでいるのかは別として。

惜しみない愛情や関心を注ぎ続けることは、それほど苦にならなければ、自然と注いでしまっている場合も多いのではないかなと想像する。

 

「僕のためにいろいろと考えてくれてありがとう」
この台詞には、とても複雑な想いが含まれているような気がして、果たしてそれは相手にとって本当に良かったのかどうか。本当はそこまで言うべき・すべきではなかったのかもしれないし、まぁそんなに深い意味でもないだろう。。

いろいろな憶測を掻き立てられた。

 

人が人を本当の意味で救えるのか?と考えていくと(とても極端に)
自分が誰かや何かによって「救われた」と感じることはあっても、自分がだれかを「救える」と思ってはいけないんじゃないかと思えてならない。

「救える」「救った」「してあげた」と思った瞬間に、なんだか随分と変色を来してしまうというか。

とてもややこしい問題だったりもして。

 

だから「愛情」は何処まで行っても逆流せずに注がれ続ける。
直接注いだ相手からの手応えを求めるべきではきっとない。

めぐりめぐってまたそこから先、その先へ注がれ続けた愛情がいつかかたちを変えて自分に降り注いだら、それですこしだけ嬉しくなって。「あぁよかったな〜」って振り返って。

 

そんなんじゃいつまでたっても救われないよ。と思うなら、少しばかり注ぎ方を変えてみるのもいい。

「求めるばかりじゃ魂も枯れちゃうわ」(Chara)の所以はそんなところだったりもするんじゃないかしら。

 

ただ、一つ言えるのは、注げばいいってもんでもなさそうだ。・・・ということ。
ちなみに個人的には、あつーい紅茶を勢い良くどぼどぼと注ぐ瞬間がたまらなく好きだ。
酸素がいっぱい含まれるような。茶葉がぐるぐる回転する感じ。

 

・・・というのは余談で、愛情にはそれ以外にもあらゆる感情が付随していて、つるつるぴかぴかの愛情はそうそう見当たらない。

だから結局、どこまでいってもそこに付随するややこしさを脇腹に抱えることになる。

必要なのは、それを抱え込むだけの覚悟。

 

とか言ってみる。。

「村上さんのところ」は月末まで諸々の質問を受け付けているようなので、せっかくだからひとつくらいへんてこな気持ちを投げかけてみたいよなーと目論んでみたりしている。むふふ・・

 

 

それではこの辺で。

中條 美咲