一匹のカメムシの侵入をゆるしてしまった。
光に向ってやってくる彼らが、明かりの灯ったこの場所へ寄ってこようとも、
誰がそれを阻止できようか・・・・・。
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去年の夏、我が家で遭遇したカメムシ侵入事件でこんなことを感じたらしく、さらりとノートに記してあった。
(なるべく)エアコンを使わない日常で、多くの窓を開け払っているとよくある出来事とも言える。
つい先日届いたジブリの機関誌『熱風』1月号ではその編集後記にこんなことが書かれていて、なんだか妙に苦いものを噛んだ時のような気分に襲われた。
ペヤングソースやきそばに、ゴキブリが入っていた問題で、製造・販売メーカーのまるか食品は当面の間の全工場での生産自粛と、全商品の販売休止をすることを発表した。また日清食品は同社が製造・販売している冷凍パスタに、ゴキブリの一部が混入していたと発表した。まるか食品は、約4万6千食の商品の自主回収を発表、日清食品冷凍も、約75万食の回収を発表。僅かな虫の混入だけで、両社合計80万食以上の”食べ物”を廃棄するとはもはや正気の沙汰ではない。例えば、アメリカの食品医薬品局が認めた食品の混入物レベルはもっと緩やかだ。つまり、製造過程において、虫などが混じってしまうことはある程度仕方がないとして、その許容範囲を法制化している。虫なんか食べたって死にはしない、消毒のための殺虫剤の多用の方がよっぽど危険ということだろう。それどころか虫を食べる文化だって日本にも世界にもある。話は違うが、ジャポニカ学習帳の表紙に親たちがクレームをつけたらしい。というのも、それまで伝統的に理科のノートなどの表紙には昆虫の写真が使われていたのが、なんと子供たちが虫を気持ち悪がっているというのだ。女の子が実際の虫を怖がるというのはまだ分かるが、蝶やカブトムシなどの写真までも拒否するようになったとは。何かがおかしいと思う。(ぬ)
わたしの生まれは長野県で、日本でも有数(?)の虫を食べる県民として知られている。もちろん地域や家庭環境によって、全くそういったこととは無縁で成長する人も多いと思う。
自身の体験としての子ども時代は、近くの田んぼ(あたり一面に広がっている)に母と弟とイナゴ穫りに行き、食卓にイナゴの佃煮が並んだ記憶もうっすらとある。
母方の祖父や叔父たちは、魚釣り・茸採り・蜂の子採りをよく行なっていて、瓶詰めにされた蜂の子も小さい頃からよく目にしていた。そしてそれを食べる彼らは、貴重なタンパク源として有り難がって無駄にせず大事に頂いていたのだと思う。
自ら好んで食べることは、見た目がこわくて殆どなかったけれど、勧められておっかなびっくり少しだけかじってみる。というような機会も時折あった。
そしてそれは苦みもありつつ意外と甘かった。
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それとこれとは全く違う話ではあるけれど。言われてみればこの一回の出来事で80万食の”食べ物”が廃棄につながってしまう国や世の中の方が筆者のいうようになんだか随分と「正気の沙汰」ではない状態なのかもしれないなぁ。とわたしも思った。
もちろん、実際に安心して食べようとした中から意表をつかれてそんな姿を発見したら、とても食べることは出来ないだろう。
食べないし、報告はする。改善もしてほしい。・・・
だけど、その度に廃棄です。処分です。というのが技術の進歩や暮らしの豊かさの象徴になってしまっては、いずれバチが当たる。
「そんくらい食べたって死にゃあせん。 」
いつだって矛盾ばかりの心を抱えながらも、あらゆる場面であまり過剰にならずに生きてゆきたいと思いました。
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そして子どもにとっての違和感を、はじめから大人同士の合意のもと。すべてを丁寧に摘み取って環境を整えてあげることが本当に大人たち・親たちの役割なのか。
とっても大きな疑問です。
夏の夜。家々のあかりを頼りに、網戸に群がるカブトムシやクワガタ。蛾や蝶やカナブンの憩いの場。それはそれはカオスな光景です。
でもそれが自然でした。そしておとなになって懐かしく思い出すのは、そんなことだったりするものかもしれません。
・・・ということで、こんなにたくさん考えるきっかけを与えてくれる『熱風』の精神が、やっぱりわたしは大好きなのでした。
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それではこの辺で。
中條 美咲