文筆欲求

外は雨。

寒さが緩み、南からの突風にばちばちと跳ねる雨。

まだ冬は終わっていないのに、どうやら気が早い春の先駆けが一瞬ちらりを顔をみせ通り過ぎてゆく。そんな天気の午後のそら。

静かな部屋にぽつねん。・・・と

打ちつける雨や風の音を聞いているとちっとも静かではないのにね。と窓の外を通り過ぎるカラスに語りかけてみたりする。

 

窓はせかいにつながっている。
わたしは内側でせかいの様子をうかがっている。

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タイトルを「文筆欲求」としてみた。堅くて凛々しい。そんな印象?

文筆とはこれすなわちせかいと対峙し、自身を満たす欲求そのものである!ダダンッ!!・・・・。

文章術でもハウツーでもなく、どうしてこんなにも文章欲求が湧き出てくるのか。というお話。

 

わたしは文章を書くことが好きだ。ここ一年を通してつくづく実感した。
もっと書きたい。なにやら訳の分からないものたちに出会って揺さぶられたままに文章にしてみたい。

創作の文章というよりも、現実的なあれこれを、考える手立てのひとつとしての「文章」。それを無造作に(思いつくまま)かいてみる。という姿勢。

いわゆる「つれづれなるままに。」という有名な彼の清少納言スタイルが心地いい。
(たぶんその辺は技術的・経験的な問題で、ゆくゆくは創作と技巧を凝らした文章が書きたくて仕方がなくなることになるかもしれない。どちらにしても今のところはずーっと遠くの未開の森。)

 

それは、ごくごく個人的な感情。誰の邪魔もしない変わりに、直接的に誰かの役に立てる訳でもない。あってもなくてもどちらでもよいもの。
空中に浮かんでいて、つかみ所がなく漂っては変化し続けるなにか。

いつかだれかの心をぎゅーっと鷲掴みしてしまうかもしれないけれど、大半の人にとっては無用の長物。

基本は置き去りに忘れ去られたいつかのどこか。

 

文章を書くことが好きだからといって、それは珍しいことでもなんでもない。
巧みな人、技術的に優れた人、効率的に量産できる人。そんな人は五万と居る。

それを承知の上で頭の片隅で膨らみ続ける「書くこと」を中心とした暮らし方。

 

あなたの生業はなんですか?と訪ねられたときには「文筆家」です。とか言ってみたい。
それを中心にご飯が食べられるのであれば肩書きなんかなくたっていい。

「小説家」「エッセイスト」「脚本家」「ライター」「作家」「随筆家」「コラムニスト」「思想家」「詩人」云々…。
幸福なことに、この世の中にはまだまだ文筆業が溢れている。

(そのうち人工知能で大抵は間に合ってしまい失業する民で溢れてしまう可能性は他の職業も大差ない。それはまた別の機会に。)

溢れているからと言って、その道に入る手順を間違えてしまったわたしが、そこへ到達出来る道筋は限られている。その半分は手持ちの運と才能(的素質)または出会いで、もう半分は現実を伴った行動。それはいちばん苦手なことだ。

けれど、どこかの誰かに「わたしをみつけて」なんていっているうちに、湧き出る水は涸れてしまう可能性も十分にある。

時間も水も有限で限られている。

 

無謀にも、趣味ではなく生業にしていきたい理由は、時間は限られているから。

だれの為でもなく自分自身の生き方。開拓をして内側から湧き出してくるものたちに目を向けて、いずれその場所を目指して訪ねてくる人たちがちらほらと現れたりなんかして。
そしてずいぶんと無用でカラフルな欠片ばかりを集めましたね〜。なんて小馬鹿にされながらも物好きな人はその場所を拠り所に「また頑張ろう」と現実に向き直る。

今までもそうやって語り継がれ、これからもそうやって細く長く残っていく場所。

 

理想はそれとして、はてさて「文筆」で飯を食う為に必要な現実的手続き・行動とは何ぞや・・・?

 

ということで、もうすっかり雨は止み、外のせかいも闇に包まれましたとさ。

そろそろカーテンを閉めなくちゃ。

 

それではこの辺で。

中條 美咲