いつごろから、選挙を通じてこのくにの未来に関心を寄せるようになっただろう。
日本では20才になると選挙にいく権利と義務が生まれる。
20才の頃はまだ学生で、住民票は故郷にあったので、おそらく投票には行かなかったし、選挙に向ける関心も高くはなかった。
就職して、なんとなく大人の仲間入りという意識も持ちつつ、図書館で少しばかり新聞の論調を見比べて、投票に向かった。
そして「選挙に行ったよ。」と親に報告してみたりしたかもしれない。
結婚してから、みらいについて考えたり話をすることが多くなった。
それは二人の未来というより、いずれ生まれてくる子どもたちが含まれたみらいの話。
まだ会ったことのない、彼や彼女はどんな環境に囲まれて、どんな風に育っていくだろう。
彼らが大きくなったとき、今のように食べるものも住む場所も自然も豊かであってくれるだろうか。
最近はそんなことがとっても気になってしまう。
はじめから与えられた環境で、その豊かさについて考えるのはむずかしい。
当然の、あたり前の、大前提の暮らし方。それ以上はあっても、それ以下は考えにくい。
そこに戻って考えてみる。
たとえば3年前の地震と原発。
あの災害を、わたしたちは少なくともこの目でみている。
自然の力によって、(自分が生まれるずっと前から)人々のつくりあげたもののすべてが流され、崩され、黒く濁った海と、そこから命からがらに、避難して助けを待つ人々の姿と、それをのり越え、今尚その場所で暮らし続ける人々を。
原発によって、このくにの中にも人の住めない場所ができてしまった。
ほんとうはあの場所で子を産み、子を育て、今年3才になるはずだった子ども達は、今はどこで育っているんだろう。
この先小さなこの島のどこかで、また大きな自然の力が働いて、すべてが崩されてしまう時が来るとする。
その度に少しずつ、子どもを育てられないような場所が増えていったとしても、それは仕方の無いことなんだよと、子ども達の故郷は大人の手によって少しずつ無くされてしまうんだろうか。
それとももう故郷など持つ時代じゃないよと、好きな時にすきな場所で好きなように育ち暮らしていくことがあたり前になったりするんだろうか。
いろいろな人が考える、このくにの未来についてのはなし。これまで辿ってきた道筋のはなし。
それぞれの立ち位置で導き出されたいろんなことばが宙ぶらりんに浮かんでいる。
わたしはそれを見上げて眺め、もう一度かんがえる。
じぶんたちのこどもの、そのまたこどもたちに続いていくみらい。
(それは災害や原発事故に限った話ではなく。)
一回でなにかが一変することを望むのではなく、少しづつ少しずつ。
今がいい。来年再来年がいい。ではなくて、もうすこし先のみらいまで。
そうやって少しずつ、とおくの未来を想像していく。
みらいは勝手にやってこないし今はまだ決まっていない。
これから先、どんな風に暮らしてどうしていきたいか思い描いて行動する。それが今を生きるおとなたちに彼らから託された役割なんだとわたしは思う。
「みらいにつづく選挙のはなし。」
*
谷川さんが選挙に寄せた詩を読んで、詩にしてみたいと思ったけれど。
結局だらだらと長く、” 詩 ” ではないものが出来上がってしまった。
せめてこの文章を書いた責任を持って、ここではいつもより気持ちを込めて最後に名前を入れる。
もちろん当日、投票用紙にサインはいれない。
それではこの辺で。
中條 美咲