次回といいながら、一回間を挟んでしまいました。
前々回の「僕らの未開〜 忘れられたことを知ること…|紡ぎ、継ぐ」の続きを書こうと思います。
そもそも宮本常一ってどんなひと?
宮本常一さんは1907年山口県大島郡(現在の周防大島)生まれ。
生涯にわたって日本全国をフィールドワークし続け、膨大な記録を残した。
まさに「あるくみるきく」を身体で実践したひと。
詳しくはWiki先生を参照に…「宮本 常一」
先祖と日本人
このイベントを6次元という場所でセッティングをされたのは、僕らの未開の熊谷充紘さん。
はじめに畑中章宏さんに声がかかったらしい。
畑中さんは編集者として長年務められた後、現在ではご自身でも執筆活動を行なっている。
「日本の神様」や「柳田国男と今和次郎 災害に向き合う民俗学」「災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異」など民俗学者・日本を軸にした出版を多くされている。
そんな民俗学や日本の風土に詳しい畑中さんが宮本常一の「写真」をテーマに扱うのであれば、世界各地を旅して、広凡な被写体を写真に収め続ける石川直樹さんが一番適任だろうと思い、このお二方による、宮本常一を巡る「先祖と日本人」が企画されたとのこと。
対談するお二人の後ろに宮本常一さんが撮った写真が映し出され、それについて畑中さんが「これはどんな意図でこの構図になったのだろう?」などと色々なポイントから写真家の石川さんに質問していく流れで進んでいった。
お二人の視点から見た宮本さんの写真について、部分的に取り上げてみると以下のようなものだった。
石川「一枚で2コマ撮れるハーフサイズ 36〜48枚撮りのこのカメラ(オリンパスペン)を宮本さんが使っていたことには大きな意味がある。」
「宮本さんは質より量を撮る人だった。」
「たくさん撮るのも才能。森山大道は100メートルでフィルム10本を使ったこともあったそう。何気ない風景にそれだけ反応できるということそのものが才能。」
畑中「写真の父は安井仲治・写真の母は宮本常一と森山さんは言っていた。安井さんの写真は陰があり角ばっていて、宮本さんはまるっこい。」
「宮本さんの写真は情報量が多い。そんな情報量が詰め込まれた写真は編集者からみてもとてもおもしろい」
石川「宮本さんは普通の民俗学者は撮らないような写真をたくさん撮っている。榊鬼という伝統的祭りの「祭り」だけでなく、どういう人がそれを見て、どんな取り巻きによってその祭りが支えられているか。必要ないと思われるものも含め、あらゆるものを撮っている。その写真には変な浮遊感があって尚おもしろい。」
「宮本さんと優れた写真家はイコールに近い」「透明人間になって撮っている(やろうと思ってもできない)、人の中に入っていく、人たらし、そんな歩き方が出来るひと。」
「後々になって資料的・記録的価値がない写真はダメ。これは言い切ってもいい。資料や記録というのは作品に劣ると考えられがちだが、そうではない。この写真にはリアリティがあり、挑発的資料(プロボーク)たりうるか。常に自問して撮っている。」
畑中さんは『民俗写真・民俗写真家』のかっこいい言い方はないか。と70年代安保時代や最近になって再び「風土」をテーマにして撮る写真家が出てきたので、今風の呼び方に刷新してひとつのジャンルにカテゴライズしてみたいと考えているようだった。
その後、宮本常一の原点である周防大島の「今」を石川直樹が撮り歩いた写真に沿って、島の風習や過去と現在での変化など、あらゆる方向に枝分かれしながら(日本各地の奇妙な祭りなど)120%超の人口密度・熱気の中、1時間半のイベントはあっという間に終わった。
まとめ。
石川さんのお話にあった「資料的・記録的価値があり、挑発的資料足りうるか。」というお話は少し意外でもあり、とても印象的だった。
そもそも、こんな風に(世間の認識は)民俗学者であったけれど、写真を写真たらしめてしまう欲があった宮本常一さんは、漂流の写真家・文筆家でもあったのかもしれない。
その中でも、民俗学という学問に特に大きく影響を与えたということで、いつからか名前の始めにくっついた『民俗学者』というのはあくまでもひとつの記号に過ぎない。
中心は日本の「風土」やそこに生きる「人々」への好奇心。
お二人の話を聞きながら、ふしぎなまるみと浮遊感のある宮本さんの写真をみつつ。
先日訪れたIZU PHOTOMUSEUMの小島一郎さんの写真を思い出した。
参照:北へのあこがれ。—「北へ、北から」写真展より|紡ぎ、継ぐ
同じ一枚の写真からも、今まで見ていたものとはちがう表情が、覗けるようになっていく。
「僕らの未開」のひとつの扉が開かれた。
この合図をきっかけに、一歩だけ足を踏み入れてみることにしよう・・。
それではこの辺で。
中條 美咲