しばらく前から、紙の新聞を読んでいます。
おとなの、社会人たるもの、新聞を読むのは常識である!というような時代も長くあったのでしょうが、わたしの世代で「新聞」はもう常識じゃないのかもしれません。
実体はわかりませんが、個人的にはそんな気がしています。
インターネットやスマホアプリなどを通じて、いくらでも話題のニュースを知る・読むことは可能な近頃ですが、読み始めてみて少しずつ、新聞に秘められたポテンシャルのようなものに気付かされつつある今日この頃です。
テレビをつける機会が減ってしまい、一時期「世の中で今何が起きているのか」ということから随分離されてしまったことがあり、これではあまりにも心許ないので、せめて新聞をとってみよう。と思ったことがきっかけでした。
何かしらの大きな事件・事故・災害などが発生すれば、センセーショナルな内容であればある程、テレビを中心としたメディア各種は大々的にそのことをクローズアップして伝えてくれます。けれどもそうでない話題、何年も解決されずに続いている問題であったり、遠い海外の国の現状であったり、日本国内でも、地方のローカルな話題などそのすべてをテレビから受け取ることはなかなか困難です。
では、ネットを駆使して多岐に富んだニュースを独自に仕入れることが出来るかというと、それはもっと難しいように思います。情報は、常に氾濫状態なので。
行き着く所は興味・関心を惹かれたタイトルのみクリックして流し読み。が精一杯かなぁ…と。
そして注意深く意識をしていなければ、どんどん偏りや歪みが現れてしまう。それがインターネットが持つ、巨大でコントロール不能な力なのでしょう。
その点新聞は古典的です。
毎朝ポストに配達員の方が一軒一軒配達してくれます。雨の日も風の日も!
広げるとテーブルをはみ出してしまう程大きいので、読む時には場所も要します。
めくっていくうちに重なりがずれて扱いにくく、いつも家の中のどこで読むのがいちばん読みやすいかなぁと、場所を少しづつ変えてみたりしながら悪戦苦闘です。
(なぜ国内外問わずあの大きさになったのか、少しばかり気になったり…)
内容も 総合(政治)・経済・国際・オピニオン・くらし・特集・スポーツ・地域・社会 というように多岐に渡ります。
もちろん全部が全部興味があるかと言われれば、興味がない話題と半々くらいでしょう。
集中して読むには時間もかかるので、ゆとりがないと流し読みすることも多いです。
直接的に興味がなくても、文字の大きさや記事の占める面積によって、今何が注目される話題(見過ごせない事項)なのか。日々、見出しを眺めているだけで少しずつそんなことが掴めるようになってきます。「明日のトップはこの話題かな」と予想するのも一つの楽しみだったり。
テレビ等では変化があれば報じられますが、新聞は変化がなくても、経過観察の情報も掲載が続きます。
政治や経済、海外の情勢など、堅い話題があるかと思えば、読者の声を川柳や投稿を通じて拾い上げることも出来、それがとっても的を得ていておもしろいなぁ。と関心してしまうことも多々。
私は毎日新聞を好んで読んでいますが、紙面の下に掲載される「余録」には筆者の知識の広さと長い時間の中で捉えられる現在の事象。その悠久の感覚にいつもしみじみしてしまいます。
最近では、誤報問題をきっかけに一部の業界内で強烈な批判や不買運動を呼びかける声など、あまり見ていて気持ちがよくないことも起きました。
責任追及は必要な一方で、どこまでが真摯な批判でどこからが行き過ぎた否定や批判なのか。自分たちが逆の立場になる可能性も十分に有り得るのにちょっと過激すぎないか。と思ったり。
各紙、特色があることがそれぞれの良さだと思うので、批判で潰し合わずに、ネットに押されて読み手の分母が減っていく中、新聞の良さってなんだろう?と改めて中にいる人たちも一から考え、その良さを最大限に生かしていくことに力を注いでほしいなぁ。と届かない程小さな声で今の新聞について。思う所を書いてみました。
新聞の良い所は、読み手の興味・関心に偏らず、多岐に富んだ内容を日々提供してくれるところでしょう。記事のすべてに目を通さなくても、タイトルや写真には必ず目が触れるので、読み重ねるうちに自然と興味が涌いてきたり、親近感が持てるようになります。
スピード感では他に劣ったとしても、内側をゆっくり耕して豊かにしていくにはとても良い情報農園だとわたしは思います。
それではこの辺で。
中條 美咲