いつから身体よりことばを優先して暮らすことがあたり前になっただろう。
もっというと、身体を置き去りにして。頭とことば、ばかりでずんずん進んできた。
大人になるってそういうことだとばかり。信じ込んでいた。
頭とことばを一端に使いこなし、色鮮やかで美しい欠片を手のひらに広げてはうっとりとして。
もちろんことばは美しい。というとちょっと語弊がある。
美しいことばも多くある。そこを辿っていけば、何かが見つかるとばかり信じていた。
今も根っこの部分では信じている。
身体はいつも置き去りだった。
はじめて人の身体に向き合ったのは、エステの仕事についたときだった。
そこに行き着いたのは偶然だったのか、とても幸運なことだった。
身体の流れを知る。感じる。変化していくのがわかる。この手で流していくという感覚。
それほど心が通じ合っていない他人の身体に直に触れ、感じ取り、変化させていく。
よく考えれば神聖でちょっと恐ろしくもある。人の身体を通じて、たくさんのことを学んだ。
(わたしのその道は半人前のまま、止まっている。)
流れがとても大切ということ。循環しているということ。集まりすぎても、少な過ぎても良くないということ。極端な変化を拒もうと(元に戻ろうと)すること。少しずつ積み重ねてようやく変化していくということ。
身体の声を、自分たちはずいぶんあっさりと聞き流しているんじゃないか。忘れていたけれど、その時は、よくそんなことを感じていたかもしれない。
しばらく身体から離れて、ことばばかりに奮闘している。(今もその最中。)その美しい欠片に触れては、豊かさを感じて、さらにもっと深くと、頭とことばが前のめりに突き進んで歩いている。
そんな折、古本屋さんで出会った一冊の本で、もう一度身体。ここから先は身体を主体にしていかなくちゃ超えていかれないだろうなとようやく、再び、身体に向き合いたいと切に思った。
池澤夏樹さんの「クジラが見る夢」に登場するジャック・マイヨールさん。
大衆化した海の中、彼は素潜りで海に入る。「私はイルカのように潜りたかった。」
イルカの時期を終えて、クジラの時期に入ろうとしているジャック。イルカとクジラの違いについて彼はこんな風に答えている。
「まるで違う。イルカは人間と遊びたがる。(中略)イルカの知性は遊ぶという段階に達していて、しかしそれ以上ではない。クジラは違う。クジラは遊ぶなどという段階を超えてしまっている。クジラはただそこにいるだけでいい。(中略)そこで、もしも、私がそこにいることを、クジラも認めてくれたら、それで充分。」
「歌う。いつも歌っている。あれは偉大な生き物だ。」
「存在として、知性として、大きい。生物の身体に無駄はない。」
西欧のいろいろな言語でクジラという言葉は「回転」という意味を語源に持っているらしい。重力を知らず、いつも歌っていて(言葉でさえないなにかで)、世界と自分の間に調和があることを最初から知っていて・・・「水の中は彼女の世界だ。」と筆者の視線、ジャックの言葉で書かれていた。
ジャック・マイヨールははじめから最後まで、(恐らく)ことばで伝えられることなんてないと思っているように思う。
彼はその身体のもつ可能性、すべてを使い彼女の世界に近づいた。
そこで何を感じたか。その世界に比べたらあまりにもちっぽけなことばに託すにはどれだけの美しいことばを持ち合わせても物足りない。
だから彼は海からあがると、淋しそうな満足の表情でどこか別の方を思っているんだろう。
身体に頼らずに便利に生きられるようになった今。
生きる実感を求めるには身体の尊厳を取り戻すこと。
身体は頭もことばすら超えて「生きている」の根っこに繋がっているとこの本を読んでいてびりびり感じた。
今、再び「身体の時代」。みたいな。
それではこの辺で。
中條 美咲