言葉頼みからの脱却のような試み。

台風が近づき一日中雨が降り続いていた。

新聞を購読していると、時折販売店さん主催で美術館チケットなどの抽選が行なわれる。
ラッキーなことに第一希望で応募したチューリッヒ美術館展のチケットに当選した。

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ということで、雨の日曜日は再び、六本木・新国立美術館に行ってきた。

つい先日も訪ねたばかりなのに、勢いづいているなぁと。美術館には勢いが不可欠!
参照:「マネという人。西洋と日本」紡ぎ、継ぐ

 

オルセー展では印象派に至るまでの流れだった。今回のチューリッヒ美術館展はモネなど印象派以降〜シャガールやダリなどシュールレアリスムまでという流れ。

この二つの展示を見れば、西洋芸術の発展・一連の流れを大まかに捉えられるような気がする。そんな意味でも本当によく考えられている。

オルセー展が今月20日まで開催中なので、そちらに流れる方が多い様子でチューリッヒ展は割とゆったりとみて回れた。

見始めてすぐに、知らず知らずに身につけた、あることに気付いてしまってガクッと膝を折られたような気分になった。

 

美術館には必ず作品へ誘う為の前書きに始まり、各作品ごとの説明が付きものだ。この時作者はどんな状況でどんなことに影響されてこの画に仕上がっているだとか。前段階の予備知識というか。

当たり前のように私たち観客はその説明文をしっかり読み込んでから本物のオリジナルの作品を目にすることになる。

そうすると、なんとなく(どうしても)自然と、説明文を読み終えてからでないと、作品に進めないような。変な錯覚に陥る。

 

そのことに気づいたら、ガクンとなってしまった。

「なんでこんなに言葉(説明)頼みになってしまっているんだろう。」

 

 

せっかく本物が目の前にあるのに、もったいないなぁと思った。

タイトルを見て、説明を読んで「ふむふむ」よりも、タイトルも分からないけれど「いいなぁ」とか「目が釘付け」とか。でも何故そうなるのかは「よくわからない。」の方が丸ごと受け止めた感じでいいかもしれないなぁと。そんなことを思った。

最初の出会いだとしたら特に。

 

その作品の背景や作者についての情報は、初見以降からようやく少しずつ…という程度で十分だろう。

 

知っているよりも、そこでどう感じたか に注ぎたい.というか。。

 

 

どうでもいいことなのだけど。

海外の美術館が印象深く記憶に残りやすいのもきっと。言葉頼りでない感覚をフルに使ってそこに向かったからかもしれない!なんて。

都合のいい解釈に結びつける。
バルセロナのピカソ美術館も、ニースのシャガール美術館も。そこに書かれている説明は分からないけれど、その分全身全霊で本物に向きあえた。

 

だからもう、あんまり言葉頼りになりたくない。なりやすいことがわかっているから、ならないように気をつけようと思った。

 

そうして言葉を頼らず見ていくのはとっても気楽でたのしい。

ゴッホの「タチアオイ」の暗さと艶美な感じとか、ホドラーの独特な大胆な躍動感。さっぱりとした色使い、額縁もいいなぁとか。
説明があってもなくても成立してしまうピカソの存在感はさすがで、クレーの原始感覚に立ち返ったような表現がすきだなとか。

カンディンスキーの「黒い色斑」を回転させたら面白そうだ!とか笑
あとはやっぱりシャガールがすき。

説明しようがない世界。馬や魚や鳥の顔をしたヒトが宙を舞っていて愛があって。

 

シュルレアリスムのイヴ・タンギー「明日」という画は異質に感じた。ぬらっとしていて、村上春樹の回想の、夢の世界に出てきそうだった。

 

最後の直線を手に入れたジャコメッティ。いろんな角度から、見れば見るほどおもしろい。
立体物の可能性の追求、みたいな。

 

そんな感じで。曖昧でばら・ばらと。

 

いろんな要素が混ざり合っていて、それぞれの剥き出しや理想やなにかがそこにはあって。

そうやってみていくと言葉に頼る必要もあんまりないな。と。

 

 

ことばで表現したいと思いながら、言葉に頼りたくないって変なの。

でもそんな風に美術館を始め、初めてのものに出会うのはとてもたのしくしあわせな時間。
(今は特に説明不可欠時代だから。そんなの蹴散らしてしまおうという反逆)

 

ということで、本番はこれからです。
この家は風速40メートルに耐えられるだろうか・・・

 

それではこの辺で。

中條 美咲